魂のルフラン (二世がやってくるまで)

2017年11月15日はごろう様が我が家にきて丁度20年目の記念日である。しかし、前エントリーでご報告した通り、彼は今年の6月6日に急死され、20才になった姿を見ることはできなかった。

今、我が家には生後四ヶ月ちょっとになるノーマルオカメインコのヒナ、ごろう様(二世)とその姉妹の花ちゃんがいる。なぜ同じ名前かというと、彼の生まれ変わりということでお迎えしたからである。

ごろうちゃん二世が本当に先代の生まれ変わりかどうかは現代の科学では確認するすべはない。この子を迎えてからも、本当に転生はあるのか、もしあったとしてもこの子が本当に先代の生まれ変わりなのか、いや、転生なんてあってもなくてもいいから、できれば見た目が先代と同じになる男の子であってほしい(鳥はヒナのうちは性別は不明)、いや、それは不謹慎お迎えしたからにはたとえ女の子になったとしても我が子として大事に育てなければいけない、いや、それ以前にこの子は無事に大人になるまで育つのか(オカメインコは最初の一年は虚弱でそれを越えられない鳥も多い)、とそれはもう不安まみれであった。

しかし、9月30日、私の心の中でいろいろ整理がついて、心が落ち着いた (ていうか落ち着かないと論文の締め切りが一週間後に迫っていた笑)。なので、本エントリーでは彼が逝った6月6日から、9月30日までの、二世とめぐりあうった不思議な経緯と疾風怒濤の日々についてお話する。

最愛の鳥の死

6月6日、10:20分、Facebook経由でFNさんというチベット支援でしりあった方(しかし5年前に1回あっただけの方)から、「末期癌で余命いくばくもない、どう心を整えていいかわからない」という悲痛なメールがきた。そのため、11:30くらいにその返事を書いていると、突然私の背後で昼寝をしていたはずのごろうちゃんが箱から飛び出して悲鳴をあげながら部屋を旋回した後、床におちた。私はいそいで手ですくい上げたが、その時にはもう一目でわかる断末魔の状態だった。

京都のFに最後の息を聞かせようと電話したので、後でその着信をみて彼がなくなった正確な時間がわかった。11:45分である。FNさんへの返信を書いている最中になくなったので、wifiを通じて死が家に殴りこみをかけてきたように感じたあの時間は、思い出すたびに背筋が凍る。掌にのった愛鳥の体は力がぬけて首も足もだらりとして、その時ただ抱いて放心するしかなかった。

たしかに彼は19才で若くはなかった。しかし、こんなに急に逝ってしまうとは。しかも365日いつ死んでもいいのに私の誕生日になくなるとは。しかし、彼は死に向かって弱っていく姿を私に見せなかったこと、私の誕生日に私の手の中で死んだことは、「ふたたびあなたの手の中に戻って来るから、悲しまないで」という彼のメッセージかもしれないと思った。というか、そう思わないと辛すぎる現実は受け入れられなかった。

彼は私に悲しんで欲しくないと思っていたかも知れないが、私は悲嘆に暮れた。なくなった直後はとにかく泣いて泣いて一日中泣いた。だって、いるべき場所に彼がいない。朝彼の呼び鳴きの声がしない、カゴの中に姿がない、仕事をしていても背後にある箱の中で遊んでいる音がしない、日没近くなると「ご飯を食べさせないと」と家路に急ごうとして、その必要がないことに気付く、これらがすべて涙のトリガーになった。この喪失感を強く感じていた時期は第三者から見ると「目が死んでいた」そうである。

ごろうちゃんがなくなった日の翌日、関東は梅雨入りした。しかし、梅雨明けまでほとんど雨が降らず、これは私が地上で泣きすぎて天上界の水分を消費していたからだと思われる。さらに喪に服する意味でベジタリアンを始めたため、面白いように体重がへっていった。

死後も継続する家の中の気配

しかし、そのような絶望的な状況の中にも一抹の希望は感じられた。30才の時に母が逝った時と今回は何か違う。母の死んだ直後私は「夢でもいい、幽霊でもいいから、とにかくでてきてくれ」と毎日頼んでみたが、まったく姿を見せてくれなかった。その「本当にいなくなった」喪失感は、母が不在のまま過ぎていく一日一日は、傷口がひらいていくような痛みに満ちていた。

しかし、今回は違う。ごろう様の気配はずっと身近に感じられた。彼の抜け羽の中でもっとも最近ぬけた尾羽を、彼がいつも昼寝をしていた箱に入れると、まだそこに彼がいるように感じられたし、夜はその羽を抱いて寝ると夢も見られた。時々は彼が遊んでいた箱から、実際音がした〔ような気もした〕。

そうして何日かすごすうちに、「彼の生まれ変わりはどこかにいる、探そう」という思いが固まってきた。私はチベットの歴史を研究していく中で、チベット人社会で行われている転生制度について見聞しており、2016年には転生をテーマにした『ダライ・ラマと転生』(扶桑社新書)という本までだした。

チベットでは生まれ変わりを探し当てる手順もマニュアル化しており、シャーマンのお告げ、死者の身近にいたものがみる夢、占いなどを総合して生まれ変わりがうまれた地点をしぼりだし、候補者をしぼってテストをして選び出す。こんなことを見聞きしているものだから、自分としては愛鳥の生まれ変わりを探すことに違和感は感じない。それに身もふたもない言い方をすればたとえ思い込みでも目標を設定することは当座の精神の安定が望める。

ごろうちゃんが逝ってから五日たった6月11日、古今集の「立ち別れ、いなばの山の峰に生ふる 待つとし聞かば いま帰りこむ」の一首をマジックで書いて、玄関とお勝手の扉にはった。これは飼い猫が行方不明になった時のおまじないで、この歌を書いた短冊を猫のごはん器の上におくと猫が早く帰って来るという言い伝えがある。鳥でもきくはずである。もう必死。

絶望の地獄ショップめぐり

とはいっても、インコの転生を探すマニュアルもないので、とりあえず首都圏の鳥をおいてあるショップをひたすらまわって、ごろうちゃんの命日以後にうまれたノーマル、オカメインコのヒナを探す。実は、私は鳥の生体をショップで販売することには反対である。悪質なショップは鳥を商品として扱うため、無理に増やして、病気になってもお金がかかれば元がとれないから、病院にもつれていかず死ぬにまかせる。人間でいえば人身売買にあたる命の軽視である。しかし、こっちもせっぱつまっているのである。

しかし、行く先々白いルチノーのヒナはたくさんおれども、ノーマルはほんどおらず、いてもごろうちゃんがなくなる前に生まれた鳥ばかりであった。さらにショップの店主は「最近のヒナは弱くて、とにかくよく死ぬよ。台湾から輸入したヒナはバタバタ死んだ。うちはいろいろ試行錯誤した餌をつくって何とか死亡率をさげている」とか、聞くに堪えない話をするので、ショップ巡りをするうちに気持ちは二番底三番底に落ちていった。

それと平行して、ごろうちゃんが急死する直前にメールをくれたFNさんのお見舞いに行った。あの日の書きかけメールは途中で放り出していたが、何日後かに改めてメールをかき、入院している病院を聞き出してうかがったのである。FNさんの病状は思ったより重く、歩くことも起き上がることもできない状態で、とりあえず「苦しい時は他人の苦しみを自分に引き受けていると思うと功徳を積むことになる、無理ならターラー真言を唱えてみては」とアドバイスしたりした。愛鳥のいない世界は死の世界なので、死とか病とかに苦しんでいる人がもっとも自分の身近に感じられた。

FNさんの死

ごろうちゃんが逝って約一ヶ月たった7月8日、恒例のダライラマ法王誕生バーティがホテル・オークラで行われた。この時、チベット関係者が集まったのでFNさんのことを話題にする。2011年1月15日に閉店したチベット・ショップ、マニマニ、その店長森川さんはやはり癌におかされ2011年になくなった。その後、マニマニの近くのイタリアン・レストランで森川さんをしのんだ一席が設けられた。FNさんと知り合ったのはその時である。後になって知ったが、その晩の0:09にFNさんは他界していた。親戚でもない私は何日かは気づかずに彼女にメッセージを送り続けていた。その後、FNさんのお友達からツイッターのダイレクト・メッセージでFNさんの死んだこと、お通夜が7月18日(火)、葬儀が7月19日(水)、市川の葬祭場で行われる、という予定を伺った。彼女のことはよく知らないのでお通夜には伺ってその人となりの一端を知ろうと思った。

お通夜の当日、研究室で院生と資料を読んでいると、雷がなりだし、しばらくすると、突然背後(北側)で大きな建物が崩れるような音がした。「何だろうね、今の音。雷にしてはへんだね」といったが、後で見たニュースでは、その時、池袋一帯に雹が降っており、駒込駅の屋根に大穴があきまくっていた。しかし、研究室は高層階にあるので嵐の実感はなかった。

その後FNさんのお通夜に行くために、授業を早めに切り上げて外にでると、すでに雨は止みはだ寒い。それまでずっと猛暑が続いていたので久々の冷気が気持ちよい。そのまま東西線の早稲田駅にいくと、電車がとまっている。構内放送によると「嵐で架線に飛来物がひっかかって、当分再開しない」とのことで、お通夜にいくのは諦めて、再び研究室に戻って資料の続きを読む。

7月19日(水)は晴れて朝から暑かったが、昨日の久しぶりの雨霰のおかげで若干過ごしやすい。葬儀のある市川駅に向かうため横須賀線への乗り換えのために某駅構内を歩いていると、突然オカメインコのなき声、それも複数の鳴き声がした。幻聴かと思ったが、気をつけてあたりを見てみると、ホームから見える一般住宅の二階がぶちぬきでオカメインコ部屋になっていて、網戸ごしにたくさんのオカメインコの群れが見える。

もし昨日お通夜にいっていたならば、この駅は夜通ることになったので、オカメインコは寝ていただろう。それに昨日霰がふって気温が下がっていなかったら、今、この家はガラス戸を閉めて冷房をかけており、オカメインコの声は外に聞こえることはなかった。普段は使わないこの駅に今日きたのは、FNさんの葬儀に参加するためであり、FNさんはごろうちゃんがなくなった瞬間に自分の死を告げるメールをくれた人である。これらは「導き」ではないか。横須賀線に乗ってから京都にいるFに一部始終をメッセージで送る。

FNさんは大手の広告代理店にお勤めしていたので、葬儀にはたくさんの会社関係の方が参列されており、一人の人生が終わる重さを感じた。彼女の生前の人となりを紹介するコーナーでは、亡くなる直前まで彼女が描いていたチベットの文殊菩薩の仏画や仏具が、海外旅行先のモンゴルなどで微笑んでいる写真があり、生きている間にもっと普通の話もできればよかったと悔やまれた。

葬儀のあと、再び乗換駅でおり、オカメインコの家を探し当てると、そこは合気道の道場であった。下から道場の二階を見上げると、網戸に向かってたくさんのオカメインコがとまっているのがわかる。半分以上はノーマルオカメインコである。しかし、さすがに、知らないお宅を直撃する勇気はないので、家に帰ってその道場をネット検索すると土日に稽古をしているとのことなので、7月23日の日曜日に度胸を決めて訪問することにする。

里子にだされた三羽のヒナ

「生まれ変わりのインコを探している」などと初対面の人に口走れば、頭おかしいと思われるのは確実なので、名刺をもって差し入れのスイカをもって道場を訪問し、「オカメインコ飼いの連帯感」を訴え、生まれ変わり云々の話は、お友達になって様子をみてきりだすという計画をたてた。この時くらい早稲田大学教授の肩書きに感謝したことはない。

合気道の道場主にまず挨拶し、オカメインコのことを伺うと、奥様が飼い主であるとのことでオカメ部屋に案内してくださる。名刺をお渡しして自己紹介すると、奥様「あなたたちのくるのをまっていました。最近、インコたちからダライラマ、チベットという声がきこえる」といわれた (唐の長安で空海を迎えた恵果阿闍梨かよ)。さらに、奥様はインコたちに向かい「あなたたちは、この人たちのことをどう思う」と聞き、すると60羽のオカメィンコたちはぴよーぴよー、と答えていた。「この子たちは嫌いな人がくるとみな隠れちゃうの。あなたたちのことは受け入れるといっています」といわれた。ちなみに私も書いててどうかと思うが、みんな実話である。

これなら「インコの転生を探している」といっても少なくとも精神病院に入れられることはないと踏んで、本題をきりだす。すなわち、「6月6日以後に生まれたノーマルオカメインコがいませんか」と聞くと、「うちはもう60羽のオカメインコがいてこの通りなので、もうカゴを撤去して卵を産ませないようにしていた(ていうか、60羽放し飼いでは・・・)。だけど、六月の上旬に気がついたら洗濯機の下で三羽が生まれていて、でも環境が悪いせいか親が羽をむしるので、親からひきはなして二日前に病院に入院させた。里子にだすつもりだ、そのうち二羽はノーマルオカメインコだ」という主旨の話をしてくださった。ちなみに、合気道をたしなむ人はスピリチュアルな人が多いので、今更「生まれ変わり」とか世迷い言をいう人が現れても、全く驚かないとのこと。

ヒナたちの体調が回復してからしか面会ができないので、8月4日に面会にいく予約を病院にいれた。

帰りの電車でケータイのアプリでチベット暦を確認すると、奇しくも30日の新月であり、さらにこの日は梅雨明けしていた。ごろうちゃんがなくなった翌日に梅雨入りし、雨が殆ど降らないまま、この日に梅雨明けしたのである。何となくこの日、長きにわたる迷走の旅が終わる予感がした。二羽のノーマルオカメインコのうちの一羽がごろうちゃんの生まれ変わりかもしれない。その日の午後はダライラマ法王事務所のお茶会だったので、午前中の体験をいろいろな人にしゃべりたおした。みな私を変人だと思ったことであろう。

第三者の意見

それから六日後の7月29日、FNさんと知り合った、かつてマニマニのあった、そして何よりごろうちゃんと19年前にであった因縁のJ駅で、霊感のある女子、ならびにたまたま上京していた平岡宏一先生を無理矢理召喚して食事会を行う。

そして、これまでの事情を話し、「入院中の二羽のうちの一羽が生まれ変わりですよね」と判断を仰ぐ。すると、みな「ここまで導かれているなら間違いないだろう。」とおっしゃるが、普通こういう風に話をもっていけばそう答えざるを得ないので、私が言わせている(笑)。

平岡先生は「先生この前の法王誕生日にお会いした時は目が死んでましたけど、ずいぶん復調しましたね」と言われる。そうか、目が死んでいたのか。そしてボディワークの巫女Yさんは「運命のヒナは会えばすぐにわかりますよ」と意味深なことをおっしゃる。

そして、いよいよ面会の8月4日となった。合気道道場の奥様のいうとおり、一羽はルチノーでノーマルは二羽で、私がケースの前にたつとノーマルの一羽が私を見上げて激しくなきだし、ケースに手を入れるとよじのぼってきて、指にとまると静かになった。二ヶ月ぶりにかんじるオカメインコの重みである。この小さな重さにどれほど飢えていたか。

「ごろうちゃん」と呼びかけると、ヒナはびー、とこたえた。この時、19年前にごろうちゃんとはじめてあった時のことを昨日のことのように思い出した。彼は同じように私をみあげてずっと鳴き続け、手にのってきたのだった。ちなみに、ケースに残った白い一羽は眠そうで無反応であり、ノーマルはケータイを怖がって威嚇していた。そばにいた人はこれは霊感とかなんとかでなく事実として生まれ変わりだと感心している。

これが「会えばわかる」というYさんのお告げの成就か。

この指にのっているノーマル一羽は引き取ろうという気持ちが決まったが、まだ迷いはあった。もし間違っていたらどうしよう。それにヒナの時点では男の子か女の子かわからない。もし転生がないなら、とりあえず男の子のノーマルであれば見た目は先代なので自分をごまかせる(そう、私は疲れていた)、しかし今の時点ではこの二羽のノーマルの性別は不明、性別がはっきりする時まで待っていたら、他の人がひきとるかもしれないし、性別がはっきりするまで他人の手に預けたら子供時代を一緒にすごせない。

ぐるぐる迷っていると先生が「インコは兄弟から離して一人にすると食事をしなくなる。兄弟がいれば、つられて食事をするので手がかからない。兄弟でひきとった方がいい」という。そういえば19年前ごろう様が我が家にきたとたん食事をしなくなり、病院通いをしまくり、五歳まではガリガリにやせてヒヨワだったことを思い出す。

それにこの三羽はよく見ると哀れな状況。親鳥にむしられた羽がやっと生え始めた状態なので羽揃いはよくなく、ルチノーは足がペローシスでひらきっぱなし、入院前はくちばしで体をひきずって動いていたそうである。さらに私の手にのってきたノーマルは前に二本、後ろに二本いくはずの指が、一本腱が外れて前に三本いっていて、その方向のおかしい指の爪は親にむしられて生えなくなっていた。健康体なのは残るノーマル一羽だけである。しかも三羽ともに骨格が小さく、先生はもうこれ以上は大きくならないでしょう、と断言する。たしかに引き離したら誰かが死ぬかもしれない。

しかし、一度に三羽もひきとる決心はつかず、最終的な決心はギュメ大僧院にいってお伺いを立ててから決めることにする。ギュメはチベット密教の二大本山の一つで、研究のために訪問するのだが、この機会を利用して管長にごろう様の生まれ変わりの真偽を聞こうという訳である。人間の高僧ならまだしもオカメインコの生まれ変わりとか聞いたら、ぶん殴られるかもしれないが、仏教では一切衆生は人も動物も同じ命ではないかと主張して占ってもらうつもり(強引)。

8月10日に日本をたち、シンガポール経由でバンガロールにつき、副管長に閲見したのはギュメについた翌日の8月12日であつた。私は副管長のお部屋を訪問して、(館長がビザの問題でイタリアにいっており副管長がギュメの最高責任者となっていた)、これまでの事情を話して先代のごろう様の写真と8月4日にとった三羽のヒナの写真をみせて、「先生から兄弟をバラバラにすると死ぬと言われたので三羽ひきとることになると思うが、どれがごろう様のうまれかわりでしょうか」と伺った。

副管長「三羽とも区別せず愛しなさい」

私「もちろん、三羽ともかわいがりますが、愛鳥の生まれ変わりとの確信がほしい」というと、あの爪のないノーマルの写真をを指さした。

私が平岡先生に「占いをやってもらえないか」と伺うと、平岡先生「これで占いとかやって、へんな卦がでたらいやでしょう? こういう時は直感でいいんですよ。叔母が舌がんになった時、ガワン先生に予後を占ってもらおうとしたら、「どんな卦がでても気になるだろう。だから占いはやらないが、直感では大丈夫だ」とおっしゃったけど、結局、本当にガンは再発しませんでした。だからこれでいいんですよ」と言われた。

育児ノイローゼの日々

8月16日に帰国し、その翌日は病院が定休日であったため、8月18日に三羽を引き取ることにした。名前は私の指にのってきた爪のないノーマルは先代と同じごろうちゃん、ルチノーは「花ちゃん」、もう一羽のノーマルは「ちょろちゃん」に決めた。性別不明なのでこうあってほしい、というこちらの思惑で男名女名を決めたのである。バクチである。育って性別が逆と判明したら、ごろ子、花雄とでもしようと開き直る。

唯一障害をもってなかったノーマルのちょろちゃんは前日肺炎の疑いがあるため退院が許されず、ごろうちゃん、花ちゃん兄弟のみが18日に先に退院した。この時点で一ヶ月近い三羽の入院費は40数万となっていてものすごく驚いた。以後もこの医院に対する不信感は続く。

ヒナをお迎えすれば全てが好転すると思っていた私は、その見通しの甘さを知ることとなる。思ったより花ちゃんの足は悪く、くちばしを使ってしか段差をあがれず、生涯なおらないというよちよち歩きはをみるにつけても不安。さらに、ごろうちゃんの反応が冷たい。出会いの時のような呼び鳴きはあの時限りで、その後は呼び鳴きをするのはもっぱら花ちゃん、ごろうちゃんは黙ってこっちを見るだけ。

我が家にきて最初の朝、おはようといってふすまを開けると、びっくりした二人にパニックをおこされたのには心が折れた。そして、先代がいつもとまっていた場所にごろうちゃんをつれていって前世を思い出してもらおうとしても、これまたパニックをおこして、ついてきてくれない。チベットの高僧の場合は、生まれ変わりが先代の住んでいた部屋に戻ると、初めてみた部屋でもどこになにがあるか知っていて、前と同じようにくつろぐといわれているので、このごろうちゃんの反応は結構こたえた。ちょろちゃんの具合も一進一退でなかなか退院できない。

そして、我が家にきてから、なぜか二羽の体重がともにどんどん減るのである。オカメインコは満一歳を超えるまではとにかく虚弱で、元気だったヒナがみるみるうちに弱って×ぬ、みたいなことはざらにある。不安で仕方ないので病院(彼らが入院していてた病院とは別)につれていったところ、生野菜を毎日とっかえひっかえ大量にカゴにいれていたのが、ヒナには消化不良で悪いのではないかと言われたので。野菜を入れるのをやめたら一応体重は安定しはじめた。毎日体重の上下動をみての一喜一憂である。

ちょろちゃんの死

一週間後、病院に電話をいれてちょろちゃんの様子を聞くと、はっきりしない。良くも悪くならないし、いつ治るかもわからないという。ネットで情報をみても肺炎が治ったという話はほとんどなく、兄弟を一緒にすれば好転するかも、と一縷の望みを託して8月25日に退院を決めた。

ちょろちゃんを移動用ケースにうつそうとすると暴れて、ブーブーというすごい呼吸音をたてる。先生に「こんな呼吸音初めてききました。これでは家に帰るまえに発作とか起こして死んだりしませんか」と聞くと「死ぬかも知れませんねえ」と人ごとのように言われ、ここでブチ切れる。そもそも発病したのはあんたの病院でだろう。と喉まででかかったが、もうこの病院には二度とこないことを心に決めて、急いで帰る。

ちょろちゃんを、ごろうちゃん、花ちゃんと会わせると喜んで三羽は鳴き交わし、翌朝も気持ちよさそうになきはじめた。よかった、これですべてが好転すると考えたのは甘い考えであった。

ちょろちゃんは同居するセキセイの雄叫びとかでもすぐにパニックをおこし、するとグーグーという呼吸音をともなう発作をおこす。発作を重ねるごとにちょろちゃんは弱り、刺激を少なくするため、セキセイや兄弟と離すことも考えたが、一羽になると人間のちょっとした動作にもおびえてカゴの中でバタバタするので、やはり兄弟と隣りあわせのカゴにうつす。

8月28日、インコたちがパニックをおこした音がしたので鳥部屋にいくとちょろちゃんが発作を起こしている。いやな予感がしたが、そのまま院生指導に大学にいくと、授業のあと、Fから電話がかかってきて、あのあともう一度大きな発作がおきて、もう今日明日の命だと思う、という。それを聞いて直帰する途中、電車の中で「石濱先生ですか」と声をかけられる。何とホディ・ワークのYさんである。彼女は関西に治療院をもっていて東京にくるのは限られた期間で、しかも電車の中でばったりなんて通常ではありえない。そこでちょろちゃんの事情を話して、こきたない我が家にきていただき、看ていただく。

帰り際、「この子は人間が好きだから側にいてあげてください」とおっしゃるので、その晩は近くに布団をしいて、ずっと側にいた。明け方まで苦しそうな呼吸音が続き、可哀想でが仕方なかった。そして世があけ、朝のごろうちゃんたちの朝鳴きにちょろちゃんは答えた瞬間に、最後の発作を起こして絶命した。あの瞬間は思いだしたくもない。

どうすればよかったのか、すくってあげられなかった、たった四日しか一緒にいられなかった、でも彼の苦しみはもうこれでなくなった、など複雑な感情が交錯した。Y さんに報告すると、「ちょろちゃんの魂はしばらくはごろうちゃん、花ちゃん兄弟と一緒にいますよ」と言う。二人をかわいがって楽しい思いをさせたら、ちょろちゃんも一緒に楽しくなるはずである。幸せにしてあげられなくてごめん。それに、残る二羽だって無事に大人になれる保証はまったくない。8月29日のこの日、不安まみれの私の育児ノイローゼは五番底のピークを迎えていた。

ちょろちゃんのお体は先代のごろう様のお墓の隣にうめ、以来、雨の日以外は二本のお線香をお供えしている。一本は先代のごろう様へ、もう一本はちょろちゃんへの供養である。

「祭り」の日々

ごろうちゃんと花ちゃんはうちにきて初めて自由に飛び回れる環境ができて、飛ぶことを愉しみはじめた。最初はヘリコプターみたいにゆっくりまわっていたが、日が経つにつれ羽が強くなり、今は戦闘機のような早さで垂直上昇、八の字飛行を愉しんで二羽で旋回する。最初は着地が下手で疲れるまで飛び回り、だんだん失速して床におちていたが、やがて人間の手や頭の上にとまれるようになり、最後は旋回のあと部屋の真ん中につった板に着地できるようになった(この板はそのためにつけた)。

二羽が旋回する様は櫓のまわりで踊る村人みたいなので、我が家ではこれを「祭り」と呼んでいた。二羽が戦闘機のように発進すると「ああ、祭りがはじまった」とすきなだけ飛ばせた。

そのうち、だんだん二羽の個性が見えてきた。足が不自由な花ちゃんは人間を呼びつけ、遠吠えをし、いろいろなことに興味をもち小学生男児のようである。なので雄かと思われた。一方ごろうちゃんはほとんど鳴かず、とても無口で花のやっていることを冷たい目で見て、気に入らないと花のハゲをつつくので、このわがままさは女の子だという気がした。転生に際して性別が逆転するなんてよくあることなので、この事態は可能性としては考慮していたが、前と同じではないことを改めて思い知った。

ノーマルオカメインコの男の子は育つにつれてだんだん顔が黄色くなり、体のシマシマは消えてグレー一色になるが、女の子はヒナの時の姿がそのままである。私のツイッターもFBのアカウントの写真もみな先代の顔写真なので、二世のごろう様が男の子だったら先代の写真をそのまま使い続けようと思っていたが、女の子になるならいずれ女の子仕様に直さねばならない。

9月10日、鳥部屋から、謎のさえずりが聞こえる。花ちゃんが人間の言葉を覚えてくれたのかな、と扉を少しだけ開けて覗くと(人間の姿をみると黙ってしまうから)、そのさえずりの主は何とごろう様であった。まだ何をいっているのかわからないが、明らかに人の言葉を練習している。自分の目が信じられなかった。ごろうちゃんは男の子だったのか。

もう一度あのノーマルオカメインコ男子との日々が戻ってくる。19年前、先代のごろう様がはじめてさえずった日の躍動感を思い出した。それから彼と過ごした19年間は、ほんとうに幸せな日々だった。

感無量になって家をでて、駅前のスタバでフラペチーノをテイクアウトすると、夕日を眺めながらこの世界に感謝した。ただの私鉄駅のロータリーであるが、それは美しい光景だった。私の中ではずっと魂のルフランの「奇跡は起こるよ何度でも」のフレーズが繰り返されていた。人間の主観とは本当に面白い。

それからどんどんごろうちゃんのさえずりは進化し、今は「ごろうちゃん、おいで」がはっきり聞き取れるようになり、口笛も不完全ながらコピーできるようになってきた。

9月29日、オックスフォード学会から帰国した翌日、久々に一階でゆっくりしていると、開け放たれた二階の窓からごろう様の気持ちよさそうなさえずりが聞こえた。先代がいた時と同じ静かで幸せな時間がいつのまにか家の中に戻ってきていた。その時、ブラウニングの詩「すべて世はこともなし」の一句が突然頭にうかんだ。気になって全文をネットで調べてみると、上田敏の訳で前後がこうであった。

時は春、日は朝、朝は七時、
片岡に 露みちて、
あげひばり、名のりいで、かたつむり、枝にはひ、
神、空に しろしめす、
すべて世は 事もなし。

「いろいろな困難があっても、神様がしろしめす世界は理想郷だ」という意味らしい。この詩のもつ境地を今本当の意味で体感していた。

翌、9月30日、玄関とお勝手の扉にはってあった、おまじないの和歌「立ち別れ、いなばの山の峰に生ふる 待つとし聞かば いま帰りこむ」を剥がした。この時、やっと私の中の様々な感情は落ち着くところに落ち着いたのである。長かった。