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目 次 (1) タボ寺につくまでの経緯 (2) カーラチャクラ灌頂レポート |
一千年の寺 |
(1) タボ寺につくまでの経緯
旅立ちの前年にわたしは『ダライラマの密教入門』(光文社刊)という本において、カーラチャクラの灌頂の式次第を日本に紹介した。灌頂とは日本密教では「灌頂」と言われている言葉にあたるもので、原語はサンスクリットの abhisekha、原義は「力を授ける」という意味である。この言葉どおり、灌頂の儀式とは師が弟子に、ある仏になる「可能性」ないし「種」を授ける儀式である。
灌頂は本来秘儀であり、最多でも二十五人の弟子しか参加することはできない。が、カーラチャクラの灌頂にかぎっては、一人の導師がおおくの大衆に授けることが許されている。その理由についてはいろいろな本に書いてあるので参照されたい。ダライラマはこのカーラチャクラの灌頂を「世界平和の祈り」と銘打って宗教臭を抜いたタイトルをつけて、世界中をまわっている。しかし、内容自体は単なるショーではない。人を仏に変容させる技法の体系、インド密教の華、無上ヨーガタントラの秘儀にほかならないのだ。
灌頂の秘密とは本来それを受けたものの間でしか口にしてはならないものだ。わたしはそれを出版という形で見事に無視したわけであるが、さらにひどいことは本の出版当時、わたしはカーラチャクラの灌頂を受けていなかった。翻訳の原本となった英語版は誰でも買えるのものなので和訳しても差し支えなかろう、とのいいわけが用意してあったが、無意識下には罪悪感が残っていた。そんなある朝、ポストの中にタボ寺で開催される学会の招待状が入っていた。そこにはタボ寺が今年に創建一千年を迎える古刹であること、その慶事に際してダライラマが光臨して、カーラチャクラの灌頂を授けること、それにあわせて、古代チベット史をテーマに掲げた学会が開催されること、などが記されていた。学会自体は専門ともかけはなれているので食指が動かなかったが、灌頂の記述には心ひかれるものがあった。前から、もし、灌頂を授かるなら、やはりチベットで行われる式に参加したいと思っていたため、現在はインド領とはいえまぎれもないチベット高原上にあるタボ寺で行われる灌頂は理想的であった。その時点で即刻タボ行きを決めた。
いつ日本をたつか、それは重要な問題であった。行き先は3700メートルのチベット高原、落石と鉄砲水の襲う悪路を二日がかりでのぼり、ついたらテント住まい。風呂はおろか空気もないので、なるべく滞在日数を減らしたいのが人情である。そのために正確な日程を知ろうとしたが、だれに問い合わせてもいつ始まるのかをはっきり言える人はなく、ただ、六月二十九、三十、七月一日の三日間に灌頂が行なわれ、灌頂の行なわれる前日の二十八日はお祭り、それに先立つ三日間は「加行」すなわち準備の行が行なわれる、くらいの漠然とした情報が手に入った。そこで、取材許可その他の事務もあるので、灌頂のはじまる四日前に入山することを目標に、六月二十日に日本をたつこととなった。
六月二十二日
窓からひんやりとした風が飛び込んで来て目がさめた。窓の外には昨日までの白い灼熱の大地はなく、杉林に囲まれた山道が続いている。デリーから夜通しのってきたバスはシムラまであと一時間というところまできていた。
かつてシムラは英領インド時代の夏の都であった。インドを支配したイギリス人たちは、故国でのファッションを頑なに変えなかったために、インドの暑さに死ぬ思いをしていた。そして、もっとも堪え難い夏の間をやりすごすために、ヒマラヤの斜面をはいあがってヒルステーションをつくった。こうして、ヒマラヤをのぞむインドの街にはイギリスの残香のこるコロニアル風の街がいくつも作られた。このヒルステーションの奥座敷にはヒマラヤがある。そして、そこには伝統的なチベット人社会が続いているのだ。
チベット人はチベット高原上に住みチベット仏教を奉じてきたが、地理的には自明のチベット文化圏も、近代にはいって自明のものとはいえなくなってきた。チベットはインド、中国、ネパール、ブータンに食い荒らされて消滅し、これらの国の「辺境」に分断されて生きることを余儀なくされたのである。
チベット人も、そこに自由さえあれば、インドの「辺境」にいようが、中国の「辺境」にいようが気にしなかったかもしれない。しかし、大半のチベット人は精神文明を真っ向から否定する無神論者の群に直面し、肉体の自由はおろか精神の自由さえ奪われる事となった。かれらは自らのアイデンティティをまもるために、経典や仏像を携えてヒマラヤをこえて逃げ出した。かつて同じ宗教を奉じていたモンゴルも今や真っ赤になりはてていたので、かれらのにげ出す先は仏教の発祥地インドしかなかった。
インドについたチベット人は集団ごとに各地にかたまって僧院を再建し、社会を大きくしていった。そのおおくは北インドのヒマーチャルプラデーシュ州と南インドのカルナタカ州に集中している。ここ、ヒマーチャルプラデーシュ州の州都シムラにも、大きな亡命チベット人社会がある。シムラはかつては英国紳士の気候難民を受け入れ、現在はチベット人という政治難民を受け入れているのだ。
シムラの街を遠望すると、まるでボロボロのマッチ箱をつみあげたゴミの山である。汚いが迫力があるのだ。街に入るとインド人旅行社が迎えにあらわれ、その案内で、その日はニンマ派の再建ドルジタク寺や、チベット人の学校やマーケットなどをみて過ごした。出会うチベット人ごとに下手なチベット語で「ダライラマの灌頂を受けにいくのだ」と話しかけると、みなそれはそれは嬉しそうな顔をした。
六月二十三日
シムラで一泊したのち、めざす目的地タボ寺に向かうこととなった。シムラからタボにいく道は、途中どこかで一泊しなければならない。道の状態は軍用道路であるため思ったよりいい。しかし、橋が落ちていたり、氷河の雪解け水が道をおし流していたり、対向車が真正面にあらわれたり、と結構命がけである。橋の横板が落ちて骨だけになった橋がいくつもあり、そこを渡る場合には、まず人が降りて先にわたる。これは万一激流に落ちた場合でも運転手一人の被害ですむからかと感心していたが、あにはからんや氷河の滝の上を進む場合は人間が重しになってつきすすんだので、単に橋にこれ以上の負担をかけないために人をおろしたのであろう。
ヒマーチャルプラデーシュは神々の座というだけあり、人はみな信心深く、治安もよい。路傍にはあちこちにカーリー女神にささげられた祠があり、運転手は祠ごとに手をあわせていた。宿営地のサラハンにも有名なビマーカーリー寺院があったが、拝観はすべて遠慮させていただいた。カーリーはちょっと恐い女神様なので、「君子危うきに近寄らず」という教訓に従って。
サトレジ川の上流域はキンノウル地方といい、ここも伝統的なチベット文化圏である。チベットのカイラス山から夏の間シバ神がやってきてハッシシをたしなむというキンノウルカイラス山があり、そのせいか、シバ派のサドゥーが断崖に小屋掛けしているのが時折見うけられた。きっとシバ神をみならってハッシシをたしなまれているのだろう。ときたま茶店でサドゥーをみかけたが、すらりとした長身にオレンジ色の衣をまとい、シバ神を象徴する三日月頭の矛をもった姿は、それはそれはカッコいい。
六月二十四日
二十三日の夜半、タボ寺に到着し用意されたテントに入った。と、思ったのだが、一夜が明けると周囲は荒涼とした河原で、寺など影も形もない。変だと思ってよく聞いてみると、そこはタボより7キロも手前のラリというとこで、タボ寺まではジープを使わなければいけないとのことであった。タボ寺には山のような空テントがあったのだから、この不便な地にとどまることの不条理さは日に日につのった。ここからはじまってこの旅行社には精神面、金銭面で随分と煮え湯を飲まされた。
タボ寺につくと、まず取材許可などの手続きをとり、その後タボ村をまわった。タボは高度3700メートルの高地で、年間を通じて雨量がほとんどない砂漠性気候である。木は人家のあるところ以外にはまったく生えておらず、昼の暑さをしのぐ日陰もない(たまに木があっても周辺は人糞だらけ。)。夜は雪がふるほど冷え、昼間は灼熱の太陽が死ぬほど照りつける。この気温差に石は細かく砕け、砂になっており、その砂の細かさも月世界の砂並みである。靴の裏の模様が判でおしたようにくっきりと残る、あの細かさである。
この地上最悪の気候条件と地理条件にもかかわらず、おおくの人々がタボには集まってきていた。もともとタボは300人ほどが住む小さな集落であったが、このカーラチャクラのために、一大テント村へと変身していた。カーラチャクラのためにタボにやってきた旅人は財布の内容と相談して、様々なベッドを選ぶことができる。一番のビンボ人は自分でテントはって野宿である。つぎは、二段ベッドの一段を借りることである。ジャンボジェットが収まるほどのおおきさの格納庫が二つ建てられており、中には二段ベっとがぎっしりつまっていた。もう少しお金のある人は、共同トイレつき、ベッドつきの、ちょっと高級なテントにとまる。あと、わたしのような軟弱者は、トイレ、ベッド、召し使、お湯つきの超高級テントにとまる。ちなみに、ダライラマ以下随行僧は、固定家屋である寺と附属建物内に寝泊まりしていた(中には特別な許可のない限り入れない)。
テント村にはカフェ、食堂、雑貨屋まですべてそろっており、日本に電話がかけられたのには驚愕した (しかしよく不通になる)。商品は生活必需品はもちろんのこと、かわったものとしては、カーラチャクラのマンダラやバッジ、Tシャツなどの関連グッズ、高僧や仏のブロマイドなど信仰系のお土産ものがある。中でも目をひいたブロマイドは、亡命政権謹製で、ダラムサラにある著名な仏像にコンピューターグラフィックではでな後光をつけたものだ
(せっかくの仏像が何かこう・・・)。ポタラ宮殿の上にわざとらしく虹がかかり、ダライラマ猊下の顔がアップで重なっているという昔からかわらぬデザインのブロマイドももちろんそろっている。しかし、テント村の規模のわりには人が少ない。この道路状態と地理条件では当然といえば当然だ。テント村の規模は商人の甘い期待がバブっていたのであろう。
会場の北辺にはオールドタボと呼ばれる千年の古刹があり、その手前にニュータボといわれる近年建立された寺がある。カーラチャクラの灌頂はこのニュータボ(新寺)の広場に大衆を集めて行なわれた。新寺に入るためにはボディチェツクがあり、そのたびごとに携帯していたルピー札の札束は(インフレなのだ札束の厚さが三センチくらいある)衆人の目にさらされ、ちょっとこわいものがあった。
オールドタボ寺の外観は四角い土まんじゅうにしかみえないが、一歩中にはいると薄暗い堂内には絢爛豪華な壁画や仏像が並んでいる。本堂は金剛界三十七尊の立体マンダラで、本堂の中心には四面のヴァイロチャナ(大日如来)が据えられている。東西南北に四面がついているのでこの大日如来はどこから見ても正面の顔だ。とにかく古い。他にもお堂がたくさんあり、マンダラ堂では西洋人の一群が瞑想を行なっていた。
新寺の会場は法話がある間しか開放されていないので、翌日見ることにした。
六月二十六日
取材許可をおろしてもらうために、朝六時にタボ入りした。すると、サフラン色の衣を着た僧や民族衣装を着たチベット人たちが朝モヤの中をしずやかにひめやかに、同じ方向にむかって歩いていた。不思議な光景であった。その流れに身をまかせていくと、人の流れは新寺を時計回りにまわってスピティ川の河原にでた。ここにきてわたしはこの人たちは朝の「コルラ」(聖地のまわりを読経しながら時計回りにめぐって参拝するチベットの巡礼方式)をしていることに気が付いた。人の列は河原から麦畑に入り、右手に早暁のオールドタボがあらわれた。古刹の素朴なたたずまいは、中世そのままで息をのむほど荘厳な光景であった。
取材許可がおりたのはこの日の午後遅く、ダライラマの午後の法話が終わった後であった。その許可証を使って、やっと新寺の境内に入ることができた。会場にはほとんど人がおらず、参集者を強い日差しからまもるために設けられた白い布製の天蓋と、座布団がわりに敷かれたチベット絨毯の群が、床一面に残されていた。天蓋は美しい菱形もようの風抜き穴があけられており、ところどろこにあしらわれた伝統的なフリル飾りが、爽やかに風にはためいている。広場の四隅には結界をシンボライズする吉祥紋が白線で描かれており、寺の正面にはダライラマの法座がしつらえられていた。法座をとりまいて一般僧の席があり、向かって右には外人席ならびに報道陣席、左は施主席、そして残る大部分の席は無論チベット人席である。新寺の堂内をのぞいてみると、カーラチャクラの儀式に専従するナムゲル寺の僧によって、砂マンダラが作成されていた。有志の僧が残って読経を続けており、静寂な雰囲気があたりを包んでいた。
このとき、わたしはカーラチャクラの灌頂について自分がいかに無知であったかを思い知った。灌頂は仏になるための力を授かる儀式であるが、その瞬間のみが灌頂なのではない。その瞬間に向けての過程そのものが灌頂だったのである。できかけの砂マンダラがもの語っているように、わたしが会場についた時には、とうに灌頂の流れははじまっていたのである。ダライラマとカーラチャクラの灌頂をアシストする四人の僧、それから、一般僧、施主、これから灌頂を受けようという人々すべてが、灌頂が成就する瞬間に向けてネジをまきあげていたのである。テント滞在を嫌い、できるだけ滞在日程を短くしようとし、単なるイベント日程を問い合わせるようにカーラチャクラの日程を問い合わせた自分の不見識が恥ずかしくなった
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