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タボ寺一千年祭カーラチャクラ体験記(其ノ弐) 


灌頂式次第

一日目 
 灌頂の施主と弟子はダライラマに帰依し、歯木を投げ、守護輪を観想する。
 ダライラマは『八千頌般若』を読誦して、砂マンダラを作成する地を査定し、その土地を守護する土地神から借りうけ、守護輪をつくって障りを祓い、守護尊を召喚するなどの儀式を行なう。

二日目 
 アシスタントの四人の僧は忿怒尊の扮装をして、手にはカーラチャクラ尊とその妃を象徴する金剛鈴と金剛杵をもち、マンダラの作成される地のまわりで象徴的な舞をまう。この舞は守護輪を形成する。
 この日アシスタント僧はマンダラの輪郭を書き始める。マンダラの輪郭線に大地の女神を召喚して祝福する。

三日目
 マンダラの諸尊を、マンダラの中のそれぞれの座に召喚する。
 マンダラの輪郭線は五色の糸によって祝福される。五色の糸は五仏の五人の妃を象徴している。この後、四人のアシスタント僧が輪郭線の上に砂を置いて砂マンダラの作成にかかる。

四日目−七日目
 午前:ダライラマとアシスタント僧は心マンダラのサーダナを行なう。
 午後:四人のアシスタント僧は砂マンダラの作成を続ける。その間ダライラマは灌頂の授与者を対象に、仏教についての法話を基礎から行なう。これが弟子にとって灌頂の「加行」となる。

八日目
 午前:ダライラマとアシスタント僧は心マンダラのサーダナを行なう。
 午後:十個の水瓶がマンダラの十方におかれ、マンダラの上には天蓋、カーテン、旗などで装飾された厨子がつくられる。マンダラの前の祭壇には供養の品がならべられる。

九日目
 午前:ダライラマとアシスタント僧は心マンダラのサーダナを行なう。
 午後:アシスタント僧は十二人の供養の女尊の扮装をして、音楽にあわせてマンダラの回りを舞い、マンダラを供養する。寺の外では土地の人々によって踊りが奉納される。今回はこの日にタボ一千年祭が行なわれた。
 
十日目(いわゆる灌頂の第一日め)
 午前:ダライラマとアシスタント僧は心マンダラのサーダナを行なう。
 午後:ダライラマの指導のもと、弟子は以下の順序で灌頂の準備を行なう。まず、動機を正しくする。灌頂の授与を祈願する。菩薩戒を取る。歯木を投げる。真言を拝領する。この晩に見る夢を占う。

十一日目(灌頂の第二日め)
 午前:ダライラマとアシスタント僧は心マンダラのサーダナを行なう。
 午後:ダライラマの指導のもと、弟子は無明を象徴する目隠しをつけてマンダラに入る。そのままで、弟子は密教の戒をとり、華を投げてどの仏の一族になるかを確定し、祝福を受ける。そして、この日の最後に弟子は目隠しをとることが許され、マンダラの秘密が開示される。

十二日目(灌頂の第三日め)
 午前:ダライラマとアシスタント僧は心マンダラのサーダナを行なう。
 午後:ダライラマから弟子に七つの灌頂が授けられる。

十三日目 
 午前:ダライラマとアシスタント僧はカーラチャクラのサーダナを行ない、カーラチャクラの儀式を締めくくる。
 午後:ダライラマとアシスタント僧はカーラチャクラ尊を供養し、ダライラマの長壽を祈願する儀式が行なわれる。大衆に砂マンダラが公開される。
その後、アシスタント僧は砂マンダラをこわし、その砂を竜王を供養する儀式とともに、川に流す。


(2) カーラチャクラ灌頂、体験記

 上にあげたプログラムから、一般に灌頂と呼ばれている三日間は、十三日にわたる儀式の十、十一、十二日目にあたり、十三日間のハイライトにあたる部分であること、また、ダライラマは大衆の前に登場していない間にも、サーダナを行なってカーラチャクラ尊としての力を強化していることなどが解ると思う。おおまかに言えば、午前中はダライラマとアシスタント僧はサーダナ行によって、カーラチャクラ尊となるための力を充電し、午後にはカーラチャクラ尊として弟子に力を授けるのだ。
 わたしはダライラマのボディガードと仲良くなって、堂内を参観する権利を半ば強引にもぎとり、六月の二十九、三十、七月一日の三日間にわたり、午前中に行なわれるサーダナ行を見せて頂いた。寺の窓にヤモリのようにはりついて堂内を覗くと、砂マンダラに向かい合った一段高い席にダライラマは坐し、アシスタント僧とともに様様な所作を行なっていた。ダライラマの雰囲気はいつもと変わり、実際よりも一回り大きくも見え、いわばあたりをなぐような圧倒的な威厳があった。同じ感じは、今年の四月、ギメ寺の管長が主宰する観音菩薩の灌頂においても味わったことがある。ギメ寺の管長ロプサン・ガワン師は以前写真でお見受けしたことがあったが、極端に痩せた方でお世辞にも堂々とした人ではなかった。しかし、灌頂の導師の席についたロプサン・ガワン師は、実に大きく見えた。そして、雰囲気もサーダナ中のダライラマと本当に似ていた。仏としての力をあげていく毎朝のサーダナ行は、一人の人間の雰囲気を実際に変容させていくのだ。
 灌頂において導師は仏になり、弟子は導師の子供となって仏として生まれかわる。このことは頭では理解していたが、ダライラマのサーダナ行を見るまでは、それが実際に行なわれることだとは思ってもみなかった。みな観想の中で、つまり、想像の中でするものだと思っていたのである。しかし、目の前のダライラマはまさにカーラチャクラ尊としてアルケミー的変容を行なっていた。ここチベットの地では儀式がその力を失っていないのだ。形式化した日本密教の灌頂からは遠く想像もつかない力強さがチベットの灌頂にはあった。


六月二十七日
 マンダラの作成の開始とともに、毎日午後に行なわれていたダライラマの法話も、この日が最終日であった。法話の内容はその都度かわるが、仏教の基礎を聴衆にみにつけさせるという目的は共通している。この基礎がないと、灌頂の力は仏になるまでの実を結ばないのだ。わたしたちはすでに数日間の法話を聞き逃しているので、明後日からはじまる灌頂の効果に一抹の不安が残った。
 この日の最後に、完成した砂マンダラが報道陣に公開された。本来ならば、砂マンダラをくずす最終日にしか公開されないものである。

六月二十八日
 この日は一日お祭りである。完成した砂マンダラに供養が行なわれ、同時にタボ一千年祭も挙行された。一千年前にタボを建立した偉大なる翻訳家、リンチェンサンポ氏の転生者(!)ロチェンリンポチェが主宰者である。堂内ではドレスアップしたアシスト僧が供養の舞をまい、堂外のダライラマの宝座の前では土地の人々が踊りを奉納する。ポンチョ風の民族衣装をまとい正装した土地の踊り手たちは入場すると輪になっておどりはじめ、いつのまにか、退場している。きわめて単調なおどりだ。あまりに動きがないので、カメラで撮影する気力もなくなった。あれだけインド文化の影響をうけたチベット文化が、華麗なインド舞踊の影響をなぜ受けなかったのかは永遠の謎だ。となりにすわったキンノウルのオバちゃんたちが、背中の刺繍が村ごとに特徴があるのだ、と解説してくれた。そういわれてみると非常に美しい刺繍であった。

六月二十九日
 この日から三日間が灌頂のハイライトである。
 午後になると、ダライラマは寺の外にでて法座につき、群衆と向かい合う。見渡してみると本当に西洋人が多い。サフラン色の衣を着た僧の中にも多くの西洋人が見受けられた。わたしの隣に席についた青年が奇怪な文字の本を手にしていたので、聞いてみるとヘブライ語であった。ということはユダヤ人であろうが、おいおいエホバの神は唯一神でないのか−、と思ったが恐いので黙っていた。また、僻地にもかかわらず報道陣の数が多い。チベット仏教の現在がチベット民族の手を離れて世界宗教になりつつあることが、ひしひしと伝わって来た。
 しかし、人種は様様なものの、テント住まいでみな全身真っ黒、天蓋を隔てているとはいえ砂漠の太陽は容赦なくてりつけ顔は日にやけて、アジア人は真っ黒、西洋人は真っ赤、靴は砂で真っ白と、何となく同じ色合いになっているのがおかしい。しかし、この過酷な状況下、誰一人立ち上がる人もなくみな静粛にダライラマを注視しているのは信仰であろう。
 この日は弟子の準備にあてられ、灌頂をとるための正しい動機が説かれた。
 そして、法話の後には政治集会がもたれた。タボは十数キロの地点に中国国境があり、あえてこの地で灌頂を行なうことには、中国当局に対するいやがらせの気持ちもあったらしい。事実、近いから灌頂を受けにいこうというチベット人が、中国国境を違法に越境しようとして多数、国境付近でつかまっていたという。この灌頂も異例の厳戒体制下で行なわれていた。
 この日、ダライラマは、ヒマラヤに住むチベット人は一つの信仰、一つの文化を持ちながら、国境によって分断されて行き来を禁じられ、貧しい暮らしを余儀なくされている。ヒマラヤの国境を開放して人の交流を取り戻そうという声明を行なった。
 こっちは、坐っているだけでもクタクタになっているというのに、午前はサーダナを行ない、午後は法話を行ない、法話のあとは政治演説を行ない、声一つ枯れいないダライラマのパワーにはとにかく驚いた。
 ダライラマ、ただものにあらず。
 一日目の最後には、真言と、枕やマットレスにいれるクシャ草と、護身用の聖紐などが配られた。今晩見る夢は夢占いに使われる。ちなみに、わたしがこの晩みた夢は日本に帰ってくつろいでいるという、実にしょうもない夢であった。

六月三十日
 二日目のハイライトは智薩唾がやどる瞬間である。わたしたちが自らをカーラチャクラ尊であると観想しても、それは単なる智の上の映像でしかない。しかし、この映像に智薩唾、つまり、われわれがカーラチャクラ尊という仏になることを可能とさせる可能力、「空という智慧そのもの」がおりてくることによって、わたしたちの姿は単なる映像でなく本物のカーラチャクラ尊になるのである。この瞬間、修行レヴェルの高い人の目にはダライラマの十方から光線がおりてくるのが見えるそうである。しかし、わたしのような凡夫はその瞬間を音楽のはじまりとともに知るしかない。ダライラマやわたしたちに智薩唾がおりてくると地鳴りのようなチベットホルンの吹奏がはじまる。魂を揺り動かすような音が智薩唾の降臨とよくマッチしていた。
 この日の最後に、わたしたちは無明を象徴する目隠しをはずすことを許され、智慧の目によって真実をありのままに見ることができるのだ。明日はいよいよ七つの灌頂を授かるのだ。

七月一日
 いわゆる、灌頂の三日目には七つの灌頂ともに、仏の力が授けられる。具体的には、
 1. 水の灌頂
 2. 宝冠の灌頂
 3. 絹リボンの灌頂
 4. 金剛杵と金剛鈴の灌頂
 5. 行動の灌頂
 6. 名前の灌頂
 7. 許可の灌頂

 を指し、これらはカーラチャクラ尊の子供となって生まれ、産湯をつかい、髪をゆいあげ、耳にピアスをあけ、言葉をならい、行動を浄化し、名前を授かり、読み書きを学習する、という過程を象徴的にあらわしたものだ。そして、最初の二つの灌頂はカーラチャクラ尊の身体を、次の二つの灌頂はカーラチャクラ尊の言語を、次の二つの灌頂はカーラチャクラ尊の心を、最後の二つの灌頂はカーラチャクラ尊の悟りの意識を実現するための力を授けてくれるのである。
 灌頂の詳細については拙著『ダライラマの密教入門』を参照されたい。

 この日灌頂を終えてテントに戻ると、テントの屋根に何かがぶつかる音がする。風の音にしては変だと思って外にでると、雨が降っていた。カーラチャクラの最終日にはよく雨が降ると聞いていたが、まさか、この月世界タボで、しかも、灌頂の最終日にはかったようにふるとは思いもしなかった。わたしたちがタボ入りした時には、雲一つないクソ快晴で、サングラスなしでは五分と目をあけていられなかった。しかし、日をおうごとに雲がふえ、最終日の奇跡の降雨である。ダライラマ、やはりただものにあらず、と感嘆しつつ雨の音を聞きながらベッドに入った。
 明日はいよいよ下界に降りることができる。明日の朝は早い。帰りはマナリにぬける予定であった。シムラにぬける行きのルートよりも行程が短いので、早朝にでれば一日で下界に降りられるはずだ。ただし道の状態がものすごく悪いのでどこで足留めをくらうかはわからないが。

七月二日
 早暁、テントの外にでると、月が山の端にかかって沈もうとしていた。満月であった。わたしたちが仏になるための行を重ねている間、月は満ちつづけ、力をすべて授かった日が満月の日にあたっていたのだ。
 完成していく砂マンダラ、毎日行なわれるダライラマの法話、満ちてゆく月、このすべてがシンクロして、灌頂の儀式に形式でない力を授けていたのである。欠損した部分のおおいわたしたちの凡俗の心が、欠けるところのない状態にまで高められて行ったこの十三日の期間は、新月が満月になるまでのサイクルにあわせられていたのである。何という叡智、何という荘厳であろうか。マンダラも月もなにもかもが、わたしたちの心を高めるための舞台道具に、いやそれ以上の働きをもって作用していたのだ。

 灌頂で知りあったカナダ人のカメラマンが「カーラチャクラはもう五回も受けたけれども、まだまだわからないことが多い」と言っていたが、確かにそう思う。わたしのレポートしたカーラチャクラなどは本当に浅い理解であると思う。

 無事マナリにつくと、翌日には終夜バスでデリーにもどり、デプン寺のゴマン学堂が経営するホテルに滞在した。ホテルには、元ゴマン学堂僧院長のゲシェー・テンパゲルツェン師がデラドゥンから上京して、わたしたちを迎えてくれた。テンパゲルツェン師は研究者として日本に十年以上滞在されており、その間わたしはずいぶんチベットの文化について学ばせて戴いた。
 ホテルで師とカーラチャクラの思い出話しをしていると、あらためて、師のカーラチャクラ理解が非常に深いものであることに気がついた。実は、わたしが去年『ダライラマの密教入門』を翻訳した際に、カーラチャクラの灌頂について師にいくつか質問をさせて戴いたのだが、「わたしは密教のことはよく知りません」と言われてはっきりとしたお答えは頂けなかった。しかし、今思うと、師は知らなかったのではなく、灌頂を受けていない人に灌頂の秘密を明かすことを避けて、ああおっしゃったのだ。
 世の見え方というものは、自分の心の程度によるのだなあ、ということがはっきり自覚できたのが、この旅のトドメの収穫であった。


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