学会報告☆ボードナート☆ルンピニー☆
目 次
(1) 聖地ボードナート編 (2) 聖地ルンピニー編 (3) 栄光のオリエンタリズム
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釈尊誕生の地をゆく |
↑ボードナートにともるマルメ(バターランプ)の火 |
二千年三月一日から一週間、LIRIの主宰する学会に参加するため、ネパールにいきました。ネパールの首都カトマンドゥではチベット人の聖地ボードナートに宿をとり、学会の開催地は釈尊誕生の地ルンピニー。そこで、今回は専門家向けには学会報告、一般の方向けにはネパール聖地巡礼ガイドということで、ひとつよろしく。
(1) ボードナート編 (仏塔伝説とチベット人の今)
三月一日 木
関空についてロイヤルネパール航空 (RA) の登場手続きをすると、旅行社はしなくていいといっていたリコンファームをしろという。その上「空港でとるヴィザは釣り銭がないといってをわたさないから、費用分ドルできっちりそろえておいた方がいい」とアドヴァイスされる。さすが、途上国。機体にはなぜか「東方航空」と併記されており、どうも中国から機体を借りているもよう。その上スッチーの制服はチベット民族服にサリーをはおるという、中・蔵・尼折衷の世界。機内はみごとに社会主義していて、テレビも、音楽も、雑誌も、映画もなし。ただ寝ろということらしい (そういえば今ネパールは社会主義政権)。そこで、例によって三席占領して寝ていると、いきなり機体交換とかで上海で荷物ごとほりだされた。機体を交換してやっと離陸したが、どうもこの機体はどっからか空気がもれているのか、寒いし気圧の調節がうまくいっていないのか耳がいたい。見ると機内食のパンの袋がぱんぱんにふくれあがっている。やはりこの飛行機どっかもれている。
カトマンドゥ一時間遅れで到着すると、迎えにきてくれたチベット人の19才のロプサンと14才のガワンの二人の少女が、Welcome to Kathmandhu とカター (挨拶儀礼につかう絹のスカーフ) をわたしの首にかける。ハワイのレイのようなのりだな。ホテルはボードナート (ネパール最大のチベット人
居留区) に面したペマホテルにチェックイン。17年ぶりのボードはライトアップされて美しく、マルメの炎がとても幻想的にゆらめいている。彼らにつれられてまず最初のコルラ (巡拝) をさせていただく。その夜はとても寒かった。なまじっか暑い国なので部屋に暖房がなく、シャワーをしたあと体をふいている間に冷え込み、布団に入ってもなかなか暖まらない。夜中に隣のベッドのすべての毛布をさらって自分の方にかけた(↑写真はストゥーパをコルラする人々。左側の壁がストゥーパの基壇を囲んでいる)。
三月二日 金
朝おきてボードに面したテラスへの扉が開いているのででてみると、西洋人が一人ビルのふちにたって下を見下ろしている。つられて下を見下ろすとそこにはボードのまわりを大挙してコルラする人々の群が。知らない人は知らないだろうが、このストゥーパははるか昔からチベット人にチャルンカショルと呼ばれてきた聖地である。この仏塔は三人の兄弟 (一説には四人) によって建立され、落慶式の時、一人は「この仏塔を建立した功徳によりわたしは来世に仏教をまもる王とならん」一人は「仏教の顕教哲学を研究する僧にならん」一人は「密教行者にならん」と願をたてた。その願によってそれぞれ生まれたのが、ティソンデツェン王、シャーンタラクシタ、パドマサンバヴァである。周知の通り、ティソンデツェン王は8世紀のチベットにあって、後二者をインドからチベットに招聘しチベット仏教の基礎を築いた人物である。
早速、一階におりてコルラの渦に巻き込まれてみる。ストゥーパのまわりには寺院があり、そこでは香煙の中、朝の法要が行われていた。マニ車のチーンチーン、チンチンチンという音と、人々の唱えるマントラの声にチベットが体感される。コルラする人の服装も民族服は圧倒的に少なくなっているけど、若い人もたくさん回っており、チベット人である以上彼らの体の一部にもコルラが組み込まれていることがわかる。昨日の晩すべて閉じていた寺院や祠の扉は、今はすべて開き中ではマルメがともされている。ストゥーパの西側には祠があり暗い堂内ではパドマサンバヴァの尊容がマルメにゆらゆらとゆれている。このマルメはどうもお金を払うと火をともしてくれるもののようだ。しばらくコルラしているとガワンが迎えにきてくる。彼らの家に向かう途中、ためしにゲルク派の寺にはいってみると入り口の左右にはネパールの王と王妃の像がどど〜んと描かれていた(↑写真はボードナートのストゥーパ上部。全体はあまりに大きすぎて写真におさまらない)。
朝ご飯はロプサン姉妹のうちでおよばれする。しかし、77才になるおばあさんだけがわたしの向かいで一緒に食事をし、他のみんなはいくらすすめてもみているだけなので、とても食べにくい。あとになって気が付いたけど、チベット人のお客のもてなしかたって、僧とか仏様を供養する形式そのままで、モンゴル風・中国風の宴会もてなしと根本的に違う。わたしが辞去する時には、妹の方は制服をきてこれから学校にいくとかで、姉は普段かよっているギヤラクシービジネススクールを休んで一日わたしにつきそってくれることとなった。とにかくチベット人は教育熱が高い。ネパール人は裸足で貧乏しているというのに。
まず、西洋人に修行コースを開いていることで知られるコパン・ゴンパにタクシーでむかう。思った程さかえていないが、図書館前の壁にかけられていた写真には感動した。それはまだこのゴンパができるまえに岡の上でヒッピーたちがソパリンポチェとトゥプテンイシをとりかこんでいる白黒写真で、その写真からは、これから世界に広がろうとするチベット仏教の勢いというものが、何かこうあふれ出しているような。
このあとは学者魂にもとづき精力的に本屋をめぐる。そして、ボードにもどり本屋をもとめつつ自然にコルラしていると、みやげものやの一軒がロプサンの母が経営する店であることを発見。そのあと、カトマンドゥの市内にむかいリコンファームをしがてらダルバル広場にむかう。一つきづいたこと。ウン年前にネパールにおとずれた時、わたしはネパール人と日本人の双方からネパール人に間違われた、二度目の今はニイハオと中国人扱いされる。おばさん化の証か(写真はストゥーパに面した寺院の境内にある巨大マニ車。まわすとチンチンと音がする。朝と夕ちんちんなる。)。
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