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チベットおすすめ映画


最近ネタ

アップタウン・ガールズ」(2004)では、世間知らずの金持ち娘が突然無一文になり、働かざるを得なくなり、履歴書を書いて、その推薦人欄に「ダライラマ」「連絡先の国名 チベット」と書いて友達をひかせておりますが、これなどは、チベット仏教がダウンタウンのビンボー人ではなく、アップタウンのお金持ちのお気に入りなことを示しています。

一つ飛んだ下の欄で「バレットモンク」をアップデイトしました。


  ごろうちゃん:この間、恵比寿ガーデンシネマで公開された映画「クンドゥン」を見たママは、いたく感動して「ビデオでもいい、たくさんの人に見てもらいたい」とビデオの販促の一助にとこのコーナーの立ち上げを依頼してきました。ここまで熱心になる理由は、成人後のダライラマを演じた役者が気に入ったことにあるとボクはにらんでいるのですが。(←違わい! これまで、チベットをテーマにした映画は、西洋人の視点から描かれていたけど、これはチベットの視点、もっと詳しく言えば聖者伝的にえがかれた初めての映画だから評価しているのじゃ!)

 まあ、異論はあるようですが、この三作以外にも、「インディペンデンスディ」のアメリカ大統領の机の上にダライラマと大統領が握手している写真があったり、エディ=マーフィ主演の「ゴールデン=チャイルド」で主人公が命をかけて護る少年がチベットの化身僧だったりとか、お笑い映画ジム=キャリー主演の「エースベンチュラ2」で、アライグマを助けられなかった主人公がショックでチベットの僧院にこもって頭のまわりに黄色い蝶をとばしているシーンとか、ドラマだったら「ツイン=ピークス」でカイル=マクラクラン演じるFBI捜査官がチベットファンだったり、「ディンジャラスビューティ」でサンドラブロックが、美人コンテストの舞台に上がる前に空の境地になれと言われて「ダライラマ」と唱えたり、「バーティカルリミット」で登山家ウィックがパキスタン領K2でルンタはためかしてオンマニペメフンとか毎朝お経唱えています。

 

かくも、ハリウッドへのチベット仏教浸透は、リチャード=ギアを例にあげるまでもなくすごいことになっています。しかし、ママはこんなにビデオや映画ばかりみていて、いつ研究をしているのでしょうか。


バレット・モンク(BULLETPROOF MONK 2003) 05/4/30 UPDATE

ギャング映画によくでるチョウ・ユンファがヒーローで、かつ、原題のバレット・プルーフ・モンクが"防弾坊主"ときたら、当然、弾丸飛びまくり、人死にまくり、チベット仏教の精神なんかカケラも意に介さない、思いっきりB級のハリウッド映画なんだろうと思ってこれまで見てこなかったが、意外や意外これが面白い上に、まじめにチベット仏教を解釈していた。

話はこうである。

チョウ・ユンファ演じるチベット僧は「時を越える坊主」。なぜかというと、世界をコントロールとするという万能の巻物の護り人になった六十年前より、死なない、老いない、病まない、無敵の坊主となっているからである。そのカッコいいチョウ・ユンファに対するヒールは、例によってナチスの亡霊で、こっちはよれよれの醜悪なドイツ老人。彼の部下がチョウ・ユンファを追い続けているだが、こういうシチュエーションで、さらに弾丸坊主という題名を見れば、チョウ・ユンファがナチス相手にばんばん銃を撃ちまくるんだろうと思いがちだが、チガウのである。チョウ・ユンファは全然人を殺さない。銃もつかわない。相手はなにしろナチスで非常にど汚いやつらであるのだが、ユンファは丸腰で余裕で敵役をかわし、笑顔でさとすのである。さらに、さえないスリの白人男カールと"バッドガール"ジェイドを、次代の巻物の番人と定め、彼らを更正させて、教育していくのである。慈悲の精神をモットーとするチベット仏教の精神を、この映画の制作者たちはちゃんと理解しているのである。

 このしょーもないタイトルと白人男のさえない顔をみて、見るのをやめていたアナタ、是非御覧ください。面白いです。最後、この二人に番人の座をゆずり、さっていくそれ相応に年をとりはじめたチョウ・ユンファはえらいことかっこいいです。是非みてください!



 

アザー・ファイナル(The Other Final 2003) 03/8/14 UPDATE

 アザーファイナルすなわち「もう一つの決勝戦」とは、2002年ワールドカップの決勝戦が行われたまさにその日、ブータンで行われた、ブータンとモンセラート間のビリ決定戦のことである。このフィルムはこのビリ決定戦が企画されてから、実際に試合が終わるまでの数ヶ月間をドキュメンタリーしたものであり、これがおもしろい。ビリを競い合うだけあって、両国のサッカーをめぐる環境はよくない。モンセラートはカリブ海に浮かぶ人口一万人のイギリス統治領の島国で、1997年の火山の噴火で国中が壊滅的打撃をうけ、サッカー場も封鎖、国力も極貧級。一方のブータンは、仏教の伝統維持を国是とするチベット仏教圏唯一の独立国であり、精神的には豊かだが物質的な国際基準からいえば貧しい国である。カリブの海賊対ヒマラヤの仏教国のサッカー対決のゆくえやいかに。まず試合にいきつくまでがながい。まず、ブータンの監督が急死し、その同じ日にモンセラートの監督も内輪もめで辞任。監督不在のスタートである。また、モンセラートの選手がブータンに来る途中五回も飛行機を乗り継ぐのも大変だが、最後の乗り換え地カルカッタで雨で足止めをくらい、その間チームの半数が感染症にかかってしまう。その結果、選手はへろへろ審判もいないというハプニングつき。審判がきまったのは開催日ギリギリ一日前であった。そのようなハプニング続出の日々の中でも胸をうつのは、両国選手のサッカーにかける万情熱である。高価な装備もいらない、ボール一個あれば楽しめるサッカーは、富めるものも貧しいものも平等に楽しめる数少ないスポーツの一つである。このフィルムはサッカーのそんな美点を上手にえがきだし、サッカーが嫌いな人でもみいってしまうヒューマンドラマにしたてあげている。以下にあげるブータンのその日のラジオはすべてを物語っていよう。

「本日ワールドカップの決勝戦が行われる日本のスタジアムは、・・平方メートルの巨大な競技場で可動式の屋根がつき、芝生の下には自動給水が行われ、会場には528のスピーカーが設置されています。我々のスタジアムは露天で、たった一個のスピーカーしかありません。しかし、同じものもあります。二つのゴールです!」(ウルウル)

金儲け、勝利獲得、初開催国のメンツなどに幻惑され、堕落した日本の決勝戦なんかより、ブータンとモンセラートのビリ決定戦にあった選手と観客の熱気の方が、余程サッカーの神様の加護をうけている。みなさーん、AdidasとNIKEはこの試合のスポンサー(はした金なのにね)やるの断ったそうですよ。この事実は心に銘記しておきましょうね。


キャラバン(Himalaya 1999 仏) 02/9/10 UPDATE

 若い族長が死ぬ。村は族長の友人だった若いカルマにキャラバンを統率する役をまかせようとする。しかし、族長の父(引退した元族長)ティンレーはカルマが族長の座をほしさに息子を殺したと思いこんでいるためその決定に反対する。ティンレーは怒りと悲しみでモーロクしており、十歳の孫に自分が後見役になるから族長を告げ、とわめき、さらにそれが村人に認められないと知るや、僧院に入れた息子ノルブのところに出向き「還俗して長老をつげ」とせまる。ノルブは父親の行動に危うさを感じ、村にもどってくる。そのような混沌とした状況の中、若いカルマは「冬が来る前に峠を越えねば」と僧によって定められた吉日(すなわち村の伝統)をあえて無視して早めに村を出発する(そのうえ族長の未亡人に色目を使う。この未亡人がセブンイヤーズインティベットでブラピをふって世界を敵にまわしたたあのチベット女性)。しかし、その行動に抵抗を感じた村の年寄り連は残ってティンレーに従い、ティンレー率いるロートルキャラバン(ただし、無理やり同行を迫られた孫と心配して従うノルブつき)は伝統によって定められた吉日に村をたった。カルマに無理をしてでもおいつこうとするティンレーは危険な近道をとおり、晴れて先発していた若者たちのキャラバンにおいつく。その晩、ティンレーの占いは明日嵐がくると告げる。若いカルマは「晴れているから嵐はこない」と、休むことを主張するが、みなは、今度ばかりはジジーの預言に従い、カルマが一人残されることになる。嵐が到来し、ロートル=ティンレーは嵐の中キャラバンを統率できるのか、そして一人残ったカルマは?って、だんだん疲れてきたよ。

 つまり、これはどこの世界にでもある新旧交代の葛藤とそれが収まるところに収まるまでの過程を、一つのキャラバンの旅路をおうことによって表現したものだ。若い族長の死、それによってもたらされた共同体の不安と動揺、その渦中にある、カルマも、ティンレーも、未亡人もその息子(未来の族長)も、はじめはみな目先のことに一喜一憂する未完成な存在だ。それが要所要所で発される僧ノルブの言葉や、キャラバンの道行きから生まれる一体感から微調整されていき、最後には安定した新しい社会関係が取り戻されていくのだ。癒されるねえ。

 監督エリック=ヴァレは長年ドルポ地方にあって、この地のキャラバンについて研究している人物だけあって、映像にもストーリーにも嘘くささがなく問題なく面白い。なんだかいろいろな賞もとってますよ。


ザ・カップ 夢のアンテナ (THE CUP 1999 豪・ブ)

 とてもいい映画だ。ぴあフィルムフェスティバル (2000年6月30日)の初日に日本で初公開 (来春、BUNKAMURAで一般公開予定)されたが、まったく期待していなかっただけに (←失礼なヤツ)、見終わってとても幸せな気持ちになった。アメリカで大ヒットしたっていうのもうなずける。 原題はチベット語で「お椀」を意味するphor ba。これをサッカーのワールドカップのカップにかけたのが英語の題名である。監督はあのジャムヤンケンツェの転生者ケンツェノルブ氏 (←写真の方。ああ、ありがたや。)。

 お話はインドの僧院が舞台で、ワールドカップの試合みたさに毎晩僧院を抜け出してテレビを見に行く少年僧、それを罰しつつも優しく見守るゲコ(ゆっとくけどこれは寺の規律をあずかる僧の職名dge skosよ) 様、チベットから亡命したばかりでホームシックにかかる少年僧、勤行の時に寝てばかりいる僧など、現代チベットの僧達の生活が、できのいい脚本のもとで生き生きと描写されていた。ちなみに、これを見終わった後で、チベット仏教を研究している夫が「面白かったけど、勤行の時に寝ていたり、サッカーに興じている坊さんの姿を見るのはちょっと・・・あれが実態なんだろうけどね」と感想をもらしていたが、そう、これが実態なのだ。

 何も現代化したからこういう僧がいるってわけではなく、昔の僧院にだってこういう僧はたくさんいた。チベット仏教では僧院は広く大衆に門戸を開いており、できるだけ多くの人間を僧にしようとする。しかし、当然のことながらすべての僧が研究や瞑想に向いているわけではないため、大半の僧は寺の雑役夫、僧兵となり、ひどい場合は文字も読めないまま一生を終えていた。寺の側でも異性交遊 (不純でなくてもダメ)、殺人でも犯さない限り、僧を寺から追い出したりはしない。四角四面の規則で人を縛り、それに合わないものを責めたり、ひどい場合は追い出したりするような、どこかの組織とはまったく違うのだ。だから、この映画の最後だって、みんなでテレビを借りて来て僧院でワールドカップの最終戦を観戦しちゃうし、ホームシックの少年僧はみんなに心を開くし、サッカー狂いのウゲンも怖いゲコ様から「いい僧になる」と言われるし、ハッピーエンドの目白押し。誰も、「修行僧がテレビ観戦なんて、許しませんっ」とか「こんなサッカー狂いの少年はろくな僧にならんな」とか「お母さんを忘れられないなら、僧院からでてけ」なんて言ったりしない。

 いろいろな世代のいろいろな人間がいて、それも男ばかりだけど、お互いが思いやりあって生活していてとても幸せそーなのである。この映画を見てチベット仏教の伝統と底力を感じ、僧院に入りたがる人が増えるのではないかとちょっち心配になった。(しかし、エンディングテーマがモンゴルの「ホーミー」ってーのはミスマッチでないか。チベットで統一せいやっ!)


クンドゥン(Kundun 1997 米)

クンドゥンとはチベット語sku mdun の音写で、「御前」「猊下」などといった最大限の敬称である。内容はダライラマが1959年にインドに亡命するまでの間のチベット社会をダライラマの自伝映画という形で描いたもので、チベットの視点から描かれたはじめてのダライラマ伝として大変意味のある作品だ。そもそも伝統的なダライラマの伝記のスタイルでは、生誕の際の奇跡からはじまって、成長して勉学や修行に励むにつれ、さまざまなヴィジョン (守護尊・守護神・前世の記憶etc.) をみて、壮年期にはある種の境地にまで達して結跏趺坐のまま静かに入寂するっていうものなのに、これまでの映画ではあまりにも人間ダライラマの側面ばかりが描かれていてちょっと悲しいものがあった。この映画ではこれまでダライラマを語るさいにぬけおちていた、聖者の意識という視点をヴィジュアル化してくれた、という意味で私個人としてはとても嬉しいものがあった。しかも、映画の中でダライラマが発する言葉には、チベット仏教でよく用いられる伝統的な比喩や警句や論理がちりばめられていて、いい勉強になる。とにかく、よく調べてあり、話も面白い (思想内容知ってるからかもしれないけど)。映画としてもよくできている。

 ほとんど素人のチベット人を使っての撮影だというからこれもオドロキである。


?セブン・イヤーズ・イン・チベット(Seven years in Tibet 1997 米)

日本ではブラピとして有名なハリウッドの色男ブラッド=ピットが主演している。原作はハイリッヒ=ハラーという実在の人物の同名のノンフィクション (昭和32年にはじまり何度も和訳が出版されている)である。ブラピ演じるハラーは第二次世界大戦末期に捕虜となっていたインドの収容所から脱走して、チベットに逃げこんでダライラマの宮廷に七年滞在していた。映画の内容は、家庭をかえりみない、ヒマラヤにいくためだったらナチの宣伝にものっちゃうような勝手なスポーツ青年ハラーが、チベット女性にふられたり、幼少のダライラマを通じてチベットの精神文化にふれることによって、自分のいやしい自我が自分を苦しめる原因であることを覚り、大人になってチベットを去るというものである。ただし、この映画のテーマとなっている人間の成長は、たんなる秘境探訪に徹した原作にはまったくない部分である。だから、この映画はドキュメンタリーというより、チベット仏教によって癒されている現代アメリカの青年たちの姿がハラーにだぶらされて描かれているといった方が正確であろう。最近のCGは恐竜をリアルに歩かせたりして喜んでいるが、失われた古きよきラサがCGでスクリーンいっぱいによみがえった時には、ああ、CGもいいな、と思った。わたしはもともとディカプリオみたいな顔のでかい俳優より、目が泳いでる気の弱そうな、でもどっかきれているプラピが大変にすきだったので、この映画の話を聞いた時は本当に嬉しかった。

 エンディングのヨーヨーマのチェロは泣けます。


リトル・ブッダ(Little Buddha 1993 英仏)

これまた、ハリウッドの美男俳優キアヌ=リーブス主演。 監督はベルナルド=ベルトリッチで、本作品は同監督による、アカデミー賞をとった中国最後の皇帝を描いた「ラストエンペラー」、イスラームを描いた「シェルタリング=スカイ」と並んで、オリエンタル三部作の一つを構成する。

 お話はシアトルに住む夫婦のもとにチベット僧があらわれ、かれらの息子がチベットの高僧の生まれ変わりの候補であると告げられところからはじまる。もちろん、若い夫婦は金髪碧眼の支配者階級WASPですから、お子さまも西洋人。とまどう夫婦ははじめはシアトルにあるチベット寺院を訪ね、また、他の転生者会うためにブータンにまで飛んだりしてチベット仏教の精神性にふれていくうちに、金儲けや地位や身分といったものにポジティブに挑戦することを美徳とするアメリカ社会をうすっぺらなものと感じるようになる。映画の手法としては、一人の豊かな支配階級のアメリカ人が自分の精神の貧困に気づいていく過程を、お釈迦様が物質的にみちたりた生活をすてて、苦行を行い、永遠の平安を得たという仏伝をだぶらせて描くところが注目される。この劇中劇のお釈迦さまをキアヌが演じているのだが、当時まだ若かったキアヌは、お釈迦様の精神性をだすのにちょっと失敗しちゃったりしてて、そこが惜しまれる点です。

 しかし、例によってエキストラのチベット人はいい味だしてます。


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