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ダライラマ14世と私(其ノ弐)


 目 次

其ノ壱

 (1) これまでの猊下の人生

 (2) ノーベル賞受賞の言葉

其ノ弐

  (3) 猊下との出会い

  (4) ダラムサラへ

  (5) その後・・・

ダラムサラ


(3) 猊下との出会い

 猊下と始めてお会いしたのは、1994年の4月のことだった。当時の私は、前年に母をなくしたショックで無気力で怠惰で凶暴な毎日を送っていた。なんせ母一人子一人兄弟なしという境遇だったので、母の死のショックたるや半端ではなく、「いつ死んでもいいや・・・」その頃はそんな投げやりな気持ちで毎日を過ごしていた (死にたいなら勝手に死ねやというツッコミが入りそうだが)。その上、私の始末におえないところは、自分を否定するだけではことたりず、この世の中をのろい、人の幸せをのろい、まあいってみれば、関係のない人にまで迷惑をかけつつ生きておりました (おりましたってアンタねえ・・・)。

 そんなはた迷惑で外道な石濱の人生に、神 (おおっと前世の業が) はダライラマ猊下との出会いというすてきな贈り物をプレゼントしてくれた。そのときの経緯はその後にわたしがだした訳書『ダライラマの仏教入門』のあとがきに詳しいので、以下に引用。

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 今年の四月に三日続けてとても不思議な夢を見た。一日目には透き通ったった花弁のオレンジ色の蓮華が沸き上がる夢であり、二日目の夢には白い二頭の牛が現れた。
 私は極めて現実的な人間であるため、通常、現実世界の延長のような夢しか見た事はない。そのため、非常に不思議に思っていたところ、明けてその次の日、チベット研究室につとめている夫を通じて、ダライラマ猊下が成田に十時間だけ御忍びで立ち寄られ、ホテルの一室で在日チベット人各位と面会をするという情報が入って来た。一九九四年四月十三日のことである。
 私はここ数年来「過去」歴代のダライラマの研究に携わっては来た。しかし、政治学や現代史は領域外であるため、「現在」のダライラマ猊下についてはほとんど知識はない。また、僭越ながら、お会いしたいという気持ちを起したことも一度もなかった。多分、あの不思議な夢がなければ、ただの情報として聞き流していたことと思う。
 しかし、ここ二日間の夢の印象はあまりにも強かった。そう思って二つの夢を顧みると、オレンジの色はチベットの僧侶の衣の色である。また、白い牛は周知の通りインドでは聖なる獣とされている。そもそも、これらの解釈を待つまでもなく、私が普段見ることのない夢を見たことに、何かとても不思議な力を感じた。私はその力にひかれるように成田に向かった。
 翌日、成田ではじめて拝見したダライラマ猊下のお人柄は、以前から見聞していた通り、気さくで親しみやすいものであった。昔から今に至るまで、チベットやモンゴルの人々は、ダライラマに一目でも会ったものは、来世において限りない幸福を授かることができると信仰しているが、私のような不信心ものでもそのような気持ちになることができた。私は幸福な思いを抱いて家に帰り、そこで、話しは終わったものと思っていた。
 しかし、その後数ヶ月してダライラマの法話を翻訳しないかとのお話しを頂き、あの「流れ」がまだとまっていないことを実感させられた。くどいようであるが、現代のダライラマは私の専門外である。そのため、何もなかったならこの話はまずお引き受けしなかったことと思う。しかし、前述の経緯があったために、謹んでお引き受けさせて戴くしかなかったのである (以上引用終わり)。

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とまあ、こうゆうわけで、石濱はダライラマ猊下のお仕事をさせて頂くことになり、その流れでインタヴューでもしにいこっかという話になって、亡命政庁の所在地ダラムサラ (インドのヒマーチャルプラデーシュ州) にいくことになったのです。その頃のわたしは早稲田の非常勤を一コマという、絵に描いたような売れない学者で、時間はあった。歴史学者としてのキャリアにとって宗教的業績は何のメリットもなかったが、失うものの何もない当時の私は、ただ暗闇にあって無意識のうちに光を求めてインドに向かった。

(4) ダラムサラへ

 成田から飛び立ったエアインディアは無気力な私を乗せてひたすらデリーへ向かっていた。機内はガラガラで、私はひじかけを全部あげて長々と横になって寝ていた (女のすることかい)。乱気流があるとかで揺れがひどく、ベルト着用のサインがでたが、気にしないでいたら、ときどき投げ出されそうになった。今回の旅行をアレンジしてくれた編集の小原嬢は不安そうな顔で「すごく揺れているけど大丈夫かしら・・」とか言っている。わたしは気にせずトイレにたつと激揺れがきて、宙を飛んで (マジ) 向かいのトイレの扉に頭をぶつけた。それを着席しているサリーを着たインド人客室乗務員にしっかり見られて笑われた。

 デリーにつくと、タクシーにのって一路ダラムサラへ。運転手はシーク教徒なのだが、給油の時以外全然止まってくれない。疲れないのだろうか。こっちは乗っているだけで、エアコンなしの車内で炎天下の熱に煎られて消耗しているとゆうのに。英語が通じないので、実力行使でとめてトイレと飲水時間だけは確保したが、とまっている間は運転手にせかされた。実に12時間のハードな強行軍であった。ダラムサラについた晩は自慢の不眠症で一睡もできず (昼にあれだけ消耗して)、翌日はへろへろ。しかし、謁見儀礼に必要なスカーフの購入、学者魂による本の購入などで午前は明け暮れた。

 インタビューの際には、意外に簡単なボディチェツクののち、猊下のお住まいの質素な応接室に通された。チベットでは貴人と謁見する際には、面会者が絹のスカーフ (カターという) を献じて、それを祝福していただいた後、首にかけてもらう、という挨拶儀礼がある。かつて、清朝最盛期の皇帝乾隆皇帝もパンチェンラマと謁見する際にはこれをやった。

 室内で目を引いたのは、ポタラ宮の聖観音堂にまつられる観音様と対になる観音像がまつられていたことである。これらの観音像は栴檀の木から自然にあらわれたという聖なる四体の観音像の一つで、ダライラマの前世であるソンツェンガムポ王が7世紀にインドから勧請したといわれるものである。由来を知る歴史家でなくとも、ありがたい気持ちになる仏像である。ダライラマ14世猊下は、出版社が用意した「サイババをどう思うか」などのへだらな質問にまで丁寧にこたえてくださり、小原嬢のサインにも快くこたえ、全員の集合写真にもきさくに応じてくださり、非常に楽しいひとときを味わえた。

 残りのダラムサラ滞在は難民の子の通う学校や、自立支援組織や、猊下の夏の離宮のノルブリンカを見学したりして過ごした。過去ばかりを研究していた私に「現代」がはじめて見えてきた日々であった。行きは炎天下の中死ぬかと思うような旅路だったので、編集嬢との協議の結果「夜中にダラムサラを出れば、目がさめたらデリーだわっ、ナイス=アイディア!」ということになり、午後十一時にタクシーに迎えにきてもらった。しかし、それが誤算であった。そのタクシーはなんと十二時間かけてついさっきデリーからダラムサラについたばかりの車だったのだ (フツー、こうゆう車手配するか?)。最初は気がつかなかったが、よく見ると、運転手の体力は限界にきており、山道だというのに居眠りをしながら運転している! ダラムサラにあがる峠道は落石の多い、むろん、ガードレールも照明もない、真の闇通(人の心のようね by 詩人)、一瞬でも寝られたらそれこそ全員で心中である。仕方ないので、編集嬢と私は代わりばんこにおきて、運転手のターバンをまいた頭をたたいておこすことにした。悪夢のような一夜であった。それでも峠道は命がかかっているので 睡魔と戦えたが、おりたところで三人がいっぺんに寝たらしく、車は通をはずれて木にむけて一直線。減速してたから被害は軽微だったものの、このときくらい不眠症がありがたかったことはない。デリーに近づくと今度は交通渋滞。B型の多いインドでは、事故があっても片づくのを待つなどという意識がないらしく、運転手は交通法規なぞどこふく風で、対向車線を走ったり、勝手に道をおりて平野や沼地をはしりまわって道をさがす結果、混乱に拍車かがかかっていた。軍隊らしき男がボランティアで交通整理をしていたが、一向に車のカオスはよくならない。デリーについた後は泥のようにベッドに倒れこんだ。

 帰りの飛行機にいたっては、もっとすごかった。深夜、わたしの真ん前の席の青年が「死ぬ〜」とかいって立ち上がってあばれだし、客室乗務員に取り押さえられて床に寝かされた。「機内で病人が発生しました。お客様の中にお医者様か看護婦さんはいらっしゃいませんか?」という機内アナウンスをはじめて生で聞いた。しかし、私の見たところ、この前の席の男はインドで薬かなんかやってたみたいで、病気というよりはちょっと薬物系の中毒の感じだった (ちなみに私は薬物は一切やったことありません。誰も売りにこないし。育ちがよさそうに見えるからかしら?)。機内アナウンスを繰り返しても誰もでてこないとみるや、私の斜め前、つまりその男と二つくらい開いた席に座っていたなんか目の細い新宗教系のおじさんが (紫のポロシャツに数珠を首にかけている)、「私が治してしんぜよう」とかいってたちあがると、いきなりお数珠を手に男の子に「喝」を入れだした。インド人客室乗務員が大爆笑するのを見ているうちに、何かこう日本人としてもの悲しい気持ちになった。そのおじさんによると「こういう高度のあるところでは魔が入りやすく、特に旅で疲れていたので魔にとりつかれたのだろう」とのことであった。インド線っていろいろあるね !

(5) その後・・・

 その後、わたしのもとには不思議にチベット仏教関係のお仕事が舞い込むようになり、私の学問も少しずつ変化を始めた。それまでの私の意識は「自分は歴史を研究しているのだから、宗教は関係ない。宗教は仏教学者がやればいい」というものであった。しかし、チベット仏教を多少なりとも知るにつれ、そのエートスを理解することなく、歴史も何も正しく理解できないことに気づいたのである。宗教と政治を分離して考えるのは、神なき現代人の浅知恵であり、当時のチベット人は違うのだ。ものすごく悪いたとえだが、あるキリスト教系の新興宗教が犯罪を次々とおこした場合、かれらの動機や次の標的などをわりだすためには、彼らが奉じている旧約聖書などを徹底的に研究する他はあるまい。いくらわたしたちがそんなバカなことをと思っても、それを信じている人はそれに則って行動しているからだ。チベットを理解しようとするなら、彼らが信じていたものすべてを理解せねばならない。これは、何もチベットに限ることではあるまい。中国の政治史を扱うなら、官僚たちの選考試験に出題される儒教思想に親しまねば、かれらの行動形式は絶対に理解できない。そのためには当時の人々と同じ物をできるだけたくさん読んで、それを身につける努力せねばならない。そのことによって、彼らの書いたものを真に正しく読解できるのだ。こうして、わたしは「チベット語を読める」などと思っていたのが単なる思い上がりであることに気づいたのである。

 このことに気づいてから、私の学問は (自称) 長足の進歩を遂げた。博士の学位もとった。それにつれて、暗闇の人生も少しずつ並みの下くらいにまで回復してきた。学者の仕事も徐々に増えてきた。しまいにゃ奇跡の就職までできた (これからどうなるかわからないけど)。とゆうわけで、私がダライラマ猊下との出会いによって得たものは大変に大きく、そのご恩は海よりも深いのだ。

 その後、何度か猊下をおそば近くで拝見する機会があったが、お話したいという気にはならなかった。猊下は私のことをもうお忘れだと思う。それでいいと思う。人が人に影響を与えるのは目に見える形ばかりではない。今後、わたしがまた道に迷うようなことがあれば、きっと何かまた別の出会いが用意されているのであろう (よきにつけあしきにつけ)。


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