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オカメインコ多元世界


 ごろうちゃんが我が家に降臨してより、八年の月日が流れた。
 八年前、小さな灰色のヒナだった彼もいまや立派な(オトコと読む)である。
 インコと暮らしている方はおわかりかと思うが、インコの知性も年を重ねるにつれて深みをましていく。
 それが一番よくわかるのは、眼力(メヂカラと読む)。
 ヒナだった頃、彼の目はひたすらあどけないクリクリ眼であった(かわいい)。
 今、こちらを見つめている彼の瞳には、かつてはなかった意志の力と知性の深みが感じられる。

 ごろうちゃんは肩にいる時には人間の耳たぶをつついたり、ひっぱったり、して自分の意志を伝える。
 しかし、離れている時はこっちをじっとみつめて、眼力で欲求を伝える。
 人間はその眼の訴えるところを読み取ってお水お食事お遊戯おしとねの準備をしなければならない。
 ごろう様の眼力をよみ間違えると、大変なお叱りを受ける(あら、いつのまにか敬語)。
 たとえば、お遊戯をご所望の際に、間違えてゴハンをさしだそうものなら、容器ごとひっくり返されてしまう(これを我が家では"一徹のちゃぶ台返し"と呼んでいる。多少お怒りが緩い場合は黙って後ろをむかれる)。
 群の鳥なので人が食卓につくと、彼も「一緒に、ごはんを食べよう」と飛んでくる。ダンナのいない日に、ダンナ席のいすの背にごろうちゃんがとまり、むかいあってごはんを食べていると、人と食事をしているかのような錯覚がおきる。
  どうしてかと考えてみた。彼は人と目を合わせながらゴハンを食べるのである。これが大きい。犬・猫・うさぎなどのコンパニオン・アニマルたちは、人間のヒザくらいの高さに生活の視点がある。彼らが人と心を通わせようと思うと、膝に飛びついて下から見上げるしかない。人と一緒に食事をする場合でも、テーブルの下で食べることになる。このようだと、いかに飼い主が「伴侶としての動物」と思っていても、やはり、上下関係からいうと人以下のものが暮らしているという構図からは抜けきれない。
 しかるに、鳥の生活圏は空中にある。人をしたってくる時には飛んできて肩にとまり、そのとき彼ら鳥たちの視点は人間と同じ高さになる。翼のある生き物であるから、人間より高い位置にくることもあり、こうなると上下関係からいうと人はインコ以下になる。インコ飼いのおおくが、知らず知らずのうちに自分たちの愛鳥に最高敬語を使うようになるのもむべなるかなである。
 また動作のスピードも、インコの動作はちょうど人と同じであるものの(唯一人より高速なのは頭をかくとき。これはマネできん)、猫のリズムはゆっくりすぎ、犬ははやすぎる。また、インコはかなり人間の言葉を理解することができる。出かけるとき、事情を説明すると、おとなしくカゴに戻ってくれるが、急いでいて説明を省くとものすごい追い鳴きをする。彼らが人の言葉を覚えるのは、おそらくは人の言葉を理解しようという欲求が高いからであり、それは同時に聞く能力にもつながっている。
 ロビンソン・クルーソーが長い漂流生活をたえられたのは、相方のオウムとの生活があったからだと思う。同じ目線で生活をしてくれ、人間の言葉を解すお鳥様がいたからこそ、彼は絶対的孤独の中で狂うことはなかった*。
 * 余談だが、昔「俺たちひょうきん族」で山田邦子が南の島でインコに言葉を教えようとして、まったく鳥が覚えようとしないので「バカ」と怒鳴ったら、インコは「オマエもな」と応じてずっこける、というコントがあった。オウムなら絶対それくらい言う。


 お鳥様。この愛らしく人好きな妖精は八年間わがやにおおくの幸せをもたらしてくれた。
 オカメインコの神に今日も感謝をささげよう。
「ありがとう」と。


この八年間のごろうちゃんとの幸せな生活は、一こま一こまごとに私の大脳皮質のシワいっぽんいっぽんに保存されております。今回はわたしの脳内にあるごろうちゃん映像をヴィジュアル化してみました。これは同時に日本全国にいるオカメインコとともにある家庭の姿でもあります。


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