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(再建)デプン寺ゴマン学堂。支援したい方はここをクリック   
ヒマラヤを降りた チベットの聖者達



 モンゴルと満州の入信

 チベット高原の厳しい気候は、いずれの産業の発展をも許すものではなかったが、そこに住む人々に瞑想や思索に最適な静謐な環境を提供していた。インドから仏教という高度な精神文化が伝来すると、チベットの人々がその教えに夢中になり、チベットの文化全体が宗教によっておおわれていくのには時間はかからなかった。
 チベット高原の仏教はインド仏教が亡びた後も栄えつづけ、哲学とヨーガによって仏陀の境地をめざす人々の名は、下界にも知られるようになってきた。13世紀にモンゴル帝国が世界を席巻していく過程において、この方面の征討にあたっていたチンギスハンの一族、ゴダンは、チベットに使いをおくって高僧を召喚した。
 1244年、その召喚にこたえてモンゴルへ赴いたのはサキャパンディタという仏教論理学者であった。以下の文章はサキャパンデイタがモンゴルの宮廷からチベットへの弟子達にむけて出した手紙の一文である。手紙の中では、モンゴルが強大であること、ゴダンが仏教に対して好意的であること、などが近況報告の形で記されている。その一部を以下に紹介しよう。

 「仏の教えとすべての有情と、とりわけチベット語を話す人々に利益があろうかと思ってモンゴルの地に来た。・・・・わたしに好い事があろうとも、悪いことがあろうとも後悔することはない。ラマ(自分の精神の導き手)、三宝(仏法僧)の加持と恵みによって今によいことがあるであろう。汝等も三宝に祈願するように。王は私を誰よりも寵愛してくださっている。おかげで、中国、チベット、ウイグル、西夏等の善知識(高僧)や大人や様々な地域の者達が、私のことを素晴らしいと思って、仏法を聞きにきて、恭しくある。・・・」(『サキャ全書』Vol.5.pp.401-402)

 その後、サキャパンディタは現在の蘭州で客死し、かれとともにモンゴルにわたった甥のパクパとチャクナドルジェの消息は一時期とだえる。しかし、パクパはモンケハンの御前試合で道士を論破するなどの功績をあげ、モンケをついでハン(遊牧民族の「王」を意味する言葉)位に登極したフビライハンの時代には、パクパはフビライの宗教顧問となって華々しい活躍をした。
 その後の元朝のチベット仏教への傾斜ぶりはつとに有名であり、チベットではこの時期、モンゴルの王族を施主として多くの寺が建立され、経典が開版された。モンゴル人のチベット仏教への信仰は、元朝の崩壊とともに一時期衰微したものの、16世紀に入ってダライラマ三世がモンゴルに巡錫して布教し、モンゴル王族に転生するにおよんで、確実なものとなっていった。
 17世紀に入ると、満州族が勃興してモンゴル民族を圧倒し、中国に清朝という王朝を創始した。満州皇帝はモンゴルのハンと同じように、チベットに使者を派遣して大ラマを召喚した。ダライラマ五世はこの召喚にこたえ、1653年に清朝皇帝を教化すべく北京に趣いた。
 以下の文章は1646年に、ダライラマ五世が清朝皇帝におくった書簡より抜粋したものである。

 [汝は]配下のすべてのものを善に導き、疑いなく確かな帰依処である聖なる三宝を冠に巻いて(つねに念頭において)、宝のような勝者(仏)の教えを興隆させるという善行を主としなさい。それが、近い未来、遠い未来の幸せの元になります。
 勝者の教えには了義・未了義、大乗・小乗等の[区別がある。それは]教化対象となる人の器や考え方や随眠の力に応じて[適用されるべき]ものだが、インド、チベット全土にあまねく名高いものは、大乗の蔵である。・・・ [仏の]教えの精髄をこの世において盛えさせるために、完璧な手段をとっていただけるようお願い申し上げる。
(『ダライラマ五世の手紙集』)

 第一段落でダライラマは、人々を善に導き仏の教えを興隆することが、未来の幸せのもとになることを述べ、第二段落では、仏教の教えには様々な種類があること、その中でもチベット仏教を盛んにするように要請している。

 チベット仏教の強力な布教システム


 このようにして、皇帝と大ラマの間に宗教的な同盟関係が生まれると、つぎにチベットと教化対象との間で、インターナショナルな人間の交流がはじまる。 ゲルク派の場合を例にあげてみよう。当時、ラサの三大寺はチベットの地方やモンゴルから、王侯貴族の師弟を留学生として受け入れていた。かれらはそこで生っ粋のチベット式の教育をうけると、故郷にもどされ現地に僧伽を建立した。その留学生が建立した僧伽は、その地方のチベット仏教の拠点となり、さらに奥地から留学生をあつめて末寺をひろげていくのである。その結果、中央チベットのラサにあるゲルク派三大寺院、セラ寺、デプン寺、ガンデン寺は、チベット仏教圏をおおうヒエラルキーの頂点に位することとなった。
 以下の文章はのちに外モンゴル最大の活仏となったジェブツゥンダンパ一世の伝記である。

 中央チベットにいらした頃、[ジェブツゥンダムパは]一切を知るお方であるパンチェンラマの御前に「学問のためにここ(チベット)にとどまりたい」と申し上げました。すると、パンチェンラマは「あなたはここで学問をなさられるよりも、モンゴルにおいて僧伽の部を建立するほうが、教えと有情に利益があろう」とおっしゃられた。その命令に従って、かれは木の馬の年にヘンテイ山の地にガンデンタルゲーリンという名の寺を建立しはじめたのである (『ジェブツゥンダムパ一世伝』 pp.437-438)

 ジェブツゥンダムパ一世は17世紀に外モンゴルにいた三ハンのうちの一人、トシェートハンの弟であり、中央チベットのタシルンポ寺に留学中、化身僧(高僧の生まれ変わり)と認定された人物である。かれは上記のように、パンチェンラマの要請に従って、故郷のモンゴルに戻りガンデンタルゲーリンという寺を建立した。この寺を中心に発展した街が現在のモンゴル人民共和国の首都、ウラーンバートルである。
 こうした布教活動の結果、18世紀に入るとチベット仏教はチベット高原上(近世に入って恣意的に国境がひかれたことにより、現在チベット高原は中華人民共和国内の西蔵自治区、四川省、雲南省、甘粛省、インド、ブータン、シッキム、ネパールに跨っている)はもとより、現在の青海省、内外モンゴル、満州、ブリヤート共和国にまで伝播していった。この圏内ではチベット語が宗教言語として共通に用いられ、さながら中世キリスト社会におけるラテン語の様相を呈していたのである。
 大僧院には所有する荘園から定期的な収入があり、施主である満州やモンゴルの王侯と巡礼者からは折にふれ多額の布施が寄進された。そのため、ひとたび出家して僧院に入ると、僧侶は僧院からすべてを給付され、何不自由ないなかで一生を学問の研鑚にささげることができたのである。
 しかし、こうした安定した僧院社会は、今世紀に入っておきた共産化の嵐によって、もろくも崩れ去って行く。チベット仏教圏は徐々に縮小していき、最後に残ったチベット本土ですら中国共産党軍に占領され、1659年にはダライラマは国外に亡命を余儀なくされることとなった。これが世に言う「チベット動乱」である。ダライラマはみずからを慕ってあとをおってくる大量の臣民とともに、チベット難民となった。

 四大宗派のインドへのシフト

 [難民となって]道路建設労働者として働いている学僧が一人死ぬ度に、数世紀にわたって受け継がれてきた学問が失われてゆくことになる。そのためにダライ・ラマはこうした学僧たちを、俗人の同胞たちに先んじて、死に到る労働から解放させる緊急手段をとらざるをえなかった (J.F.アドベン『雪の国からの亡命』地湧社)。

 しかし、かれらの不屈の精神はこの逆境を見事にのりきっていった。
 ダライラマの率いるゲルク派の足取りを見て見よう。ダライラマは北インドのムスリーにおちつくと(後にダラムサラに亡命政権を樹立)、チベット仏教の伝統の保全と教育の近代化と難民の生活の安定のために奔走した。貴族の抵抗にあって難しかった近代化政策も亡命社会では容易に行なうことができた。
 難民達のうち俗人は南インドのカルナタカ州のジャングルに入植させられ、僧侶はチベット国境に近い北インドの難民キャンプ、バクサドアルにおいて仏教研究を続けさせられた。難民達は乾燥した 3000m の高地から、いきなり湿潤なインドの平原に移り住んだことにより、当初次々と病に倒れていったが、徐々に生活を安定させ、南インドの地に僧院を再建していった。
 チベットの仏教は人にこそ価値がある。幼少のうちに出家した僧は論理学、般若、中観、阿毘達磨倶舎論、律などの順に膨大な量の聖典を暗唱して研鑚をつみ、同時にラマからその意味を口伝によって伝授される。僧侶の位は学問の達成度によって階層分化が細かくなされており、そのシステムは大変強固なものであった。寺という器がなくなっても伝統をインプットした高僧が残っていれば伝統の維持は可能であったのである。
 かつて、ラサにあったゲルク派の三大寺院のうち、セラ寺はカルナタカ州のバイラクッペに、ガンデン寺とデプン寺は同州のムンドゥゴットに再建された。同じくラサの二大密教学堂、ギュトー寺とギュメ寺は同州のボンディラとフンスールに、西チベットのタシルンポ寺はパンチェンラマという主を中国に残したままバイラクッペに再建された。以上がゲルク派の主要な僧院の再建先である。
 一方、ゲルク派以外の宗派はもともとチベット外のシッキム、ブータンにいくつかの拠点を有していたために、亡命当初の生活はゲルク派より少しは恵まれていた。
 カギュ派はディグン・カギュ派、シャンパ・カギュ派、ドゥクパ・カギュ派、カルマ・カギュ派の主要四分支がある。このうち、ディグン・カギュ派は北インドを拠点とし、ディグン・カギュ僧院はヒマーチャルプラデーシュ州のマンディーに再建された。ドゥクパ・カギュ派とシャンパ・カギュ派とカギュ派の最大派閥カルマ・カギュ派は、みなシッキムのダージリンを拠点として、それぞれドゥクパ・カギュ僧院、ソーナンダ僧院、ルムテク寺を建立した。
 ニンマ派の二大寺院、ミンドゥルリン寺とドルジタク寺は、それぞれヒマーチャルプラデーシュ州のシムラとオリッサ州のガンジャムに再建された。また、ディルゴ・ケンツェ・リンポチェはネパールのカトマンドゥにシェチェンテンイタルゲーリンを、ペノル・リンポチェはカルナタカ州のバイラクッペにテクチョクナムドルシェードゥプリンを、ドゥジョム・リンポチェはシッキム州のカリンポンにサンドクペルリを、ウルゲン・リンポチェはネパールのボードナートにカニンシェードゥプタルゲーリンを建立した。
 サキャ派は、ゲルク派と同じくチベット外に拠点を有していなかったため、亡命当初の学僧の教育はサールナートやルンピニーのチベットセンターで行ない、後にウッタラプラデーシュ州のデラドゥンにサキャ寺を再建した。
 このように、チベット仏教の四大宗派の主要僧院がインド各地に再建され、釈尊の時代からつづく師子相承の伝統は、かろうじて保持されることになったのである。

写真は再建デプン寺の集会殿(tshogs chen)写真は文殊師利大乗仏教会(←再建デプン寺の支援活動の窓口)提供。
 
 カリフォルニアのチベット仏教

 いまこそ仏教が西欧に渡来するべき時機です。西欧はあまりに心が病んでいます。たぶん物質的に恵まれ過ぎているせいでしょう。落ち着かない心は、没頭する対象を見つけなくてはなりません。かれらには仏教の精髄こそが与えられねばなりません。この精髄は西欧的精神、科学、哲学とかかわっていなければなりません。そうでなければ、西欧とは何の関係もないものとなってしまうでしょうから。実際には、これはさほど難しいことではないでしょう。四聖諦、八正道、空論、菩薩道といった仏教の重要な教説は非常に論理的かつ実践的だからです。その教義はあらゆるときに適用されます。なぜならそれは根源的な人間性、苦と幸せの問題を扱っているからです(ヴィッキー・マッケンジー『奇跡の転生』文芸春秋社:一部訳を変更)。

 インドに再建されたチベット仏教のセンターには、いつしか物質文明に疑問をもつ西洋の若者達が集まってくるようになった。若い世代のチベット僧はかれらの悩みを聞き疑問に答えるという形で、かたことの英語で法を説き始めた。この英語を話す若い世代のチベット僧は、弟子の西洋人たちとともに海をわたり、70年代後半から80年代にかけて数多くのチベット仏教のセンターを海外に設立していった。センターには頻繁にインドから高僧が訪れて伝統的な聖典の講義や瞑想の指導を行なった。そして、若いチベット僧は通訳や講演録の翻訳出版に奔走した。 チベット仏教は主にハリウッドの芸術家や芸能人、また、インテリ層に多大な支持を得て、センターはヨーロッパ、アメリカ、カナダ、オーストラリアに急速に拡大していった。


 四大宗派の海外布教について主要な部分だけ述べよう。


 まず、ゲルク派では、ラマ・トゥプテン・イェーシェーが世界中にセンターを建立し、1974年にはこれらのセンターを統括する大乗仏教伝統維持財団 (FPMT カリフォルニア) をつくった。また、カルマ・カギュ派では、チョギャムトゥルンパが世界規模に展開したカギュ派のセンターを統括するために、ヴァジラダート・インターナショナルを1970年に設立した (カナダ、ノバスコティア)。
 ニンマ派ではタルタン・トゥルクがカリフォルニアにニンマ瞑想センターを設立し、1971年にはダルマ出版社を興した。また、ソギャルリンポチェはリクパ・フェロウシップ(アメリカ、カリフォルニア)を、ナムカイノルブはコミュニタゾクチェン(イタリア、グロセット)などの団体を指導している。また、サキャ派はアメリカのワシントンとマサチューセッツに大きな拠点を持つ。
 全体として、ゲルク派は、オーストラリア、イギリス、アメリカなどの英語圏に強く、信者数も一番多い。ゲルク派についで活発な活動を行なっているカギュ派の各派は、フランスをはじめとするヨーロッパに強い。歴史的にゲルク派と深い関係にあるニンマ派、サキャ派の海外支部はゲルク派と同じ地域にある場合が多い。
 センターを海外で主宰する若い世代のチベット僧たちはチベットの伝統的な教授法にそいつつも、西洋人の抱える問題についてするどい洞察を加えた。かれらの書く著書はしばしばベストセラーとなり、日本でもかれらの著作のいくつかは翻訳されている。ニンマ派では、ケツゥンサンポの『虹の階梯』(平河出版社)、タルタン・トゥルクの『秘められた自由の心』(星雲社)、ナムカイノルブの『虹と水晶』(法藏館)、ソギャルリンポチェの『チベット生と死の書』(講談社)、カルマ・カギュ派では、チョギャムトゥルンパが記した『タントラへの道』、『タントラ、狂気の智慧』(以上二書めるくまーる社)、『タントラ叡智の曙光』(人文書院)、ゲルク派では、ダライラマ十四世の講演録『愛と非暴力』(文芸春秋社)、『ダライラマの仏教入門』、『ダライラマの密教入門』(以上二書光文社)、『縁起と空』(同朋舎)などの邦訳版がある。
 常に新しい地に向かい、かの地の人々に僧院の扉をひらくこと、これが、モンゴルや満州に僧伽を設立していった頃から変わることない、チベット仏教僧団のあり方なのである。

 現世に向かうベクトルと出世間のベクトル


 隔絶した環境でヨーガや哲学の修行を行なっているチベット僧が、しばしば下界におりてきて、かくもエネルギッシュに布教を行なうのはなぜであろうか。その疑問に対する答えはチベットの仏教思想の中に見つけることができる。
 上述の最初の三つの引用文にその秘密が隠されている。三者の文章には「衆生(ないし有情)と教えに利益する。」という思想が共通して含まれている(下線参照)。「衆生」と「教え」という対概念はチベット語で bstan 'gro という熟語となっており、この両者のために尽力する、という思想は、チベット文献のいたるところみてとることができる。以下に、この言葉の背景について確認してみよう。
 チベット仏教は大乗仏教である。大乗仏教では、仏門に入る際に「自分一人が輪廻の苦しみから離脱するために悟りを目指す」のではなく、「苦しんでいる多くの衆生を救うために、できるだけ多くの衆生を救うことの可能な仏陀の心と体を手にいれよう」と、願うことからはじまる。チベットでは、前者の決意は自分一人の利益しか考えていない小乗仏教の発心として一段低く見られ、後者の「他のものの幸せのために仏陀の境地を目指す心」は、菩提心(bodhicitta / byang chub sems)と呼ばれて、何よりも重要視されている。
 「仏陀の境地」に到るためには、福徳と智慧の二つ(福智二資糧)を膨大に積まなければならない。福徳とは、主に現世にとどまって苦しんでいる衆生を様々な手段(方便)で救うことを指し、智慧とは「空を直接に知覚している意識」である。この二つは仏陀の存在の二つの側面、「形ある体」(色身)と「真理の体」(法身)の原因となるものである。この両者はバランスよくかならず両方積まねばならない。智慧、つまり、「空を直接に知覚している意識」なくしては、適切に衆生を救うことは不可能であり、「現世にあって衆生を救う行動」なくしては、「空を直接に知覚している意識」は得られないからである。
 チベット僧が好んで引用する龍樹の著作、『宝蔓』(ratnavali)には、「福徳」を積むことの具体例として、僧院を建立したり、仏を供養したりすることと、衆生に食べ物や住処を与えていくことなどがあげられている。つまり、「教え」と「衆生」に供養や援助を行なうことが福徳の実際なのである。
 話しが難しくなってしまったが、要点はチベットの仏教思想では、僧院の中で自らの心と体を研鑚することと、現世にあって人々を利益することが両方行なうべきものとみなされていることにある。そして、この智慧をもって、現世に苦しむ多くの衆生を一人でも多く救おうという「菩提心」こそが、彼等をしてヒマラヤをおりて下界の民に布教をする原動力となっているのだ。
 次に、逆の視点から見てみよう。なぜ、チベット仏教がかくも広範囲な人々に受け入れられてきたのであろうか。モンゴル、満州に続いて西洋社会までもがチベット仏教思想の虜となっていった理由は何なのであろうか。
 チベットの仏教思想には、仏教が歴史的発展をとげる中であらわれてきたすべての哲学的見解、つまり、論理学、中観、唯識、密教などが包括的に含まれている。特定の経典や宗祖の見解のみを奉じた日本の宗派仏教とくらべると、そのスケールは比較にならない程大きい。チベット仏教はありとあらゆる哲学的命題を議論し、様々なレヴェルの見解を矛盾なく統合していく過程で、論理学の重要性を痛感した。チベットでは、新しく仏門に入る僧は仏教思想に対して誤った理解を持たないように、論理学の修行を課せられる。かれらはマニュアル化されたディベート法を暗唱させられ、毎日ディベートをくり返すことを通じて、仏教の基本思想を論理的に身につけていくのだ。数年これをくりかえした僧は、自分の意見を論理的矛盾なく述べ、対立する見解の矛盾点にはするどくつっこむことかできるようになる。このチベット仏教の論理的性格が、かつては他宗教を弁舌によって圧倒し、現在は先進各国のインテリ層の心を掴んでいるのだ。
 論理的矛盾のない完璧な思想と、その思想を心と体の上に実現するという瞑想修行を、ふたつながら有したチベット仏教は、なぜか(一部の若者を除いて)ここ日本ではあまり人気がない。それには、いくつかの理由が考えられるが、私の見るところ、チベット思想の乾燥した論理性は、ウエットで情緒的な日本人の感覚には複雑すぎること、また、西洋人はチベット仏教の「縁起」の思想によって「自我」を壊されて一段高い境地に移行するが、日本人にはそもそも壊すほど確固とした自我がないこと、などが原因にあげられる。確固とした自我ももたずに共同体(会社とか家族とか)の無意識と一体化している日本人にとって、自我の脱構築や自己の内面と向かい合う瞑想はもっとも遠いものなのかもしれない。チベット仏教がモンゴル、満州、キリスト教圏という元来、狩猟・遊牧型社会であった場所で支持をうけてきたことは意味のないことではあるまい。
 しかし、未来もこのままであるかどうかはわからない。日本的システムが通用しなくなってきた昨今、共同体というよりどころを失った自我が、チベットの仏教哲学に逢着する日が近いような予感もするからである。


資料 (ゲルク派主要寺院のインドでの再建先)


セラ寺(Sera monastery カルナタカ州 バイラクッペ)

デプン寺('Bras spungs monastery カルナタカ州 ムンドゥゴット)

ガンデン寺(dGa' ldan monastery カルナタカ州 ムンドゥゴット)

タシルンポ寺(bkra shis lhun po monastery カルナタカ州 バイラクッペ)

ギュメ寺(rgyud smad カルナタカ州 フンスル)

ギュト寺 (rgyud stod アルナチャルプラデーシュ州 ボンディラ)


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