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僧形の王 (priest king) ダライラマ



 

 1.はじめに

 ダライラマは観世音菩薩の化身である。彼は亡命チベット人社会に僧形の王として君臨する一方で、今や民族を超えて全世界に存在するチベット仏教徒の導師的存在ともなっている。現ダライラマ猊下は14世とされているが、彼の位は通常の王のように親兄弟から譲られたものではない。彼は前代のダライラマの転生者としてダライラマ14世を名乗っているのである。つまり、14代という数字はダライラマの称号を有する人物がある時点から転生した回数を示した世代数なのだ。
 彼が国を失う前にどれほどの力を有していたかは数々の例を挙げるまでもないが、ここは18世紀初頭にチベットに布教に訪れたカソリックの神父の目をかりて見て見よう。
 チベットの大ラマ (ダライラマ) はチベット人ばかりか、ネパール、モンゴル、中国の民によっても長、導師、保護者、司教と見なされている。彼はただの人としてではなく観世音 (spyan ras gzigs) として崇拝・供養されている。観世音は何世紀にもわたり彼らの指導と利益のために転生を繰り返して来た。大ラマは宗教的な事を支配するばかりか、世俗の事も支配している。彼は全チベットの絶対的主人なのである。大ラマは王を任命し、彼の代理として彼の名の元に民政、軍事、司法にあたらせていることは事実である。しかし、このチベットの王は王とは言えず、単なる行政官と言えよう。彼は大ラマによって命令された事には何事であれ逆らう事はできない (Dessideri, Tibetan Account, 1932, pp.205-206)。
 実際、ダライラマは17世紀から18世紀初頭にかけてのその絶頂期において、中国 (清朝)・モンゴル・チベットの政治・宗教の舞台に絶大な権威を有していた。当時のモンゴルの王侯は莫大な布施を携えて競ってダライラマのもとに至り称号を求めていた。その権威は当然のことながら政争の具となる道も開き、この時代チベットに関連して三国間でおきた軍事紛争は(複雑な事情が背景にあったにせよ) 表立った理由としては、ダライラマ位の継承が挙げられることがほとんどであった。例えば、1717年のオイラト (西モンゴル) の一支ジュンガルがチベットを侵略した理由の一つには、当時ダライラマとされていた人物に異議があったことによる。続く1720年における清朝のチベット侵略は、後にダライラマ七世と知られるようになる幼童を即位させるためであった。
 また、交戦中においてこれら三国の間で応酬された非難の言葉を見ると、ダライラマの教えを貴んでいるかいないかが善悪の基準として用いられていたことを見て取ることができる。例えば、1686年に始まる東西モンゴル (ハルハ、オイラト) の紛争中には、ハルハの化身僧ジェブツゥンダムパがダライラマの使者と座の高さを同じにしたことを理由に、ジュンガルはこの化身僧とその親族の王の引渡しを要求し続けた。また、清朝は交戦相手のオイラトのガルダン王に対して、彼の行為はダライラマの教えを滅ぼすものであるとの非難を何度も行っている。このような状況が示していることは、ダライラマをめぐるこれら三国の間ではダライラマの権威を認めるという共通した視点が存在していたことである。これら全てのことはダライラマが民族を超えた権威を有していたと証言する先程の神父の報告を裏書している。
 歴代ダライラマの転生者の探索・即位等の儀式は華麗を極めており、その遷化にあたって遺骸はミイラにされ宝石をちりばめた巨大な仏塔に納められた。この仏塔はポタラ宮の最上階に安置されており、ラサの人々はその屋根を町のどこにいても望むことができる。これらの一連のダライラマに捧げられて来た崇拝・供養はチベット仏教文化の文脈の外に身をおくものにとっては異様なものと映るかもしれない。しかし、ダライラマという存在は化身、転生等の我々にとってもごく身近な仏教思想によって成りたっているのであり、その権威はチベットの開国にまつわる数々の美しい物語によって醸成されたものなのだ。これらのことを知る時、我々もダライラマを供養する人々の心情を自ずと理解することができるのである。

2.化身としてのダライラマ

 「観世音の化身」という言葉に、我々は観世音という実体的な存在を措定して、その観世音が姿をかえて我々の眼前に顕現するようなイメージを持つが、チベットにおける化身観はこれとは相違している。詳しい議論を省いて略述すれば、仏教では仏の存在レヴェルを大きくいって法身・報身・化身の三つに分ける。法身は真理そのものであり極めて観念的な存在である。チベットのみならず仏教文化圏においては、法身を表象する時には往々にして仏塔の形をとる。一方、化身の存在様態は我々が「ある」という意味での存在レヴェルを指す。例えば、歴史上の釈尊等はこの化身にあたるものである。報身は法身と化身の中間にあって、化身の基体となっているもので、最も説明の難しい存在である。チベットでは報身の仏は五つの特性を有しており、空間的には密厳浄土において、時間的にはこの世の衆生が全て輪廻から解脱するまで、眷族には大乗の聖者を、身には三十二相八十種好を備え、説法には大乗の法を説くと言われている。つまり、報身の仏とは肉体を有する存在と真理の世界の中間レヴェルの存在様態と言えよう。報身の仏が衆生を救おうとする際には、身は密厳浄土にあって不動でありながら、化身の身をこの世間に顕現する。化身の姿は兎や鳥等の動物の場合も、お釈迦様のように人身の場合も、帝釈天や梵天等の天の場合もある。そのため化身は時間的にも空間的にも無制限である。ダライラマ一世の伝記の冒頭には以下のような記述が記されている。
 阿弥陀仏と観世音の御父子と緑ターラ・白ターラの御二人の女尊は、この不浄なる世間に、あるものは転輪聖王、あるものは国王、あるものは帝釈天や梵天、またあるものは出家や在家の菩薩の姿等の、所化に合った御姿の化身を無量に示されるのです。それは虚空に浮かぶ一つの月輪が地上の様々な器に一度にその姿を映すがごとく、観世音は苦もなく我々のもとに化身の御姿を御示しになられるのです (『ダライラマ一世伝』p.390)。
 ここでは月輪が報身の仏に、その地上における影像は化身の姿にたとえられている。観世音とダライラマの関係はこのような月とその影像の関係を対象させてみると解りやすい。前述したようにダライラマは死後仏塔に納められることを慣例としているが、これは化身の身の法身への帰入をシンボライズしたものなのである。

3.ダライラマの転生譜

 次にダライラマの転生譜について考えて見たい。ダライラマは観世音の化身としてチベットの地に現れてからは転生を繰り返して現在にまで至っている。
 我々が現ダライラマ猊下を十四世と数える方式では第一世ダライラマはツォンカパ (ゲルク派の創始者) の高弟ゲンドゥンドゥプとなる (表48番参照)。つまり、現在のダライラマの世代数はゲルク派成立以後の人物に便宜的に世代数をふったものである。ダライラマの転生系譜は歴史的にはダライラマ二世代に始まるので、この世代数でも十分意味を有すると言える。しかし伝統的なチベット社会ではゲンドゥンドゥプ以前にも観音にまで遡る数々の前世が存在すると信じられており、この前世者を抜きにしてはダライラマの権威と行動原理の源泉は理解できないのである。ゲンドゥンドゥプ以前のダライラマの前世者は『ダライラマ一世伝』 (1494年成立) の冒頭にすでにその主要な人物の名前が見られる。現在見られる転生譜の形にまとめられたのは、ダライラマ五世の摂政の座からチベットの王となったサンゲ・ギャムツォ (1653-1705) によってである。
 まず、冒頭に位置するのは観世音である。童子ナンワ (3番) は釈尊と同時代の人物である。観自在 (2番) からゲワペー (35番) まではインドにおけるダライラマの前世である。そしてニャーティ・ツェンポ (36番) から13世ダライラマ (60番) まではチベットにおけるダライラマの前世者である。チベットの史書によると、チベット仏教の伝統は10世紀のランダルマ王の廃仏によって断絶したといわれ、廃仏以前に伝えられた仏教を前伝仏教、廃仏後に伝えられた仏教を後伝仏教と画期する。この画期法によるとチベットにおけるダライラマの前世者の中でニャーティ・ツェンポ (36番) からティ・レルパチェン (40番) までは前伝仏教時代の人物であり、ドムトン (42番) 以後は後伝仏教時代に活躍した人々となる。前伝仏教代に挙げられた前世者達は全て王である (彼らについては後述する)。一方、後伝仏教代に名のあがっている前世者達はほとんど沙弥か僧である。後伝仏教の始めに現れたドムトンは、カーダム派の創始者として名高い人物である。ゲルク派はこの派の影響を強く受けて成立した派である。また、クンガーニンポ (43番) はサキャ派を創始した人物である。サキャ派の教えはツォンカパの師レンダワを通じてゲルク派にとりいれられている。シャンリンポチェ・ユタクパ (44番) はツェル派の創始者である。ツェル派は17世紀末にはすでにゲルク派に吸収されていた。このようにダライラマの前世者にはチベットの歴史上の重要人物に加え、ゲルク派の宗義の中にその流れを見出すことができるチベット仏教諸派の創始者が含まれていることに気づく。
 僧、王、童子、果ては鳥や兎まで現れるダライラマの転生譜は一見荒唐無稽である。けれども、観世音が衆生を彼岸にわたす祈願をたて、その時々の衆生の教化にとって最も有効な姿に化身するという前述の化身思想に鑑みれば不自然なことではないことが解る。

 

1. 聖観世音
2. 世自在
3. 童子ナンワ(釈尊と同時代)
4. 童子セルワ
5. 王子チャクメ
6. 王子クンツガー
7. 王ラケー
8. 王コンチョクバン
9. デーバテンパ
10.王子ロドーペル
11.童子ガージン
12.沙弥ツゥンパ
13.童子ノルサン
14.童子ダワ
15.童子リンチェンニンポ
16.童子パドマ
17.童子ウーセル
18.童子チャムパ
19.王センゲダ
20.王デムチョク
21.天の王
22.童子ゲンドゥンペル
23.独身の王
24.王ケサル
25.化身の兎
26.八才の童子
27.ジボ    
28.バラモンリンチェンチョク
29.比丘サムテン・サンポ
30.屍林行者
31.小洲の王
32.鳥のソロン・クンツギュ
33.王キャプチン
34.サホル王ツクラクジン           パドマサンバヴァの所化
35.法王ゲワペー               アティーシャの父
36.ニャーティ・ツェンポ           チベット初代の王
37.ラ・トトリネェンツェン          仏教に初めて接触した王
38.ソンツェンガムポ (7c)      チベット文字を制定。ネパール妃と中国妃を娶り、チベットにインド・中国仏教を初めて導入した王。               
39.ティソンデツェン (8c)     インドから菩薩シャーンタラクシタと阿闍利パドマサンバヴァを招聘して、顕密の教えをチベットに確立。サムエ寺を建立。                                
40.ティレルパチェン (9c)
41.カチェ・ゴンパワ
42.ドムトン・ゲルワイ・ジュンネー (1005-1064)  カーダム派の開祖
43.大サキャパ・クンガー・ニンポ (1092-1158)   サキャ派の開祖
44.シャン・リンポチェ・ユタクパ (1123-1193)   ツェル派の開祖
45.ガーダー・ニャンレル (1124-1192)    ニンマ派の五大埋蔵教説発掘者のうちの最初の一人。
46.ラジェ・ゲワブム
47.ネーガケンパ・ペマバジラ
48.(1) ゲンドゥンドゥプ (1391-1472)     ゲールク派の創始者ツォンカパの三大弟子の一人。                       
49.(2) ゲンドゥン・ギャムツォ (1475-1542)   ダライラマ化身系譜の事実上の開始人。                       
50.(3) ソナム・ギャムツォ (1543-1588)     モンゴルに進出してモンゴル王アルタン・ハンを施主にする。
51.(4) ユンテン・ギャムツォ(1589-1616)    アルタン・ハン王家に生を受ける。
52.(5) ガワン・ロサン・ギャムツォ(1617-1682) 絶頂期のダライラマ。偉大なる五世。
53.(6) ツァンヤン・ギャムツォ(1683-1706)
54.(7) ケルサン・ギャムツォ (1708-1757)
55.(8) ジャムペー・ギャムツォ (1758-1804)
56.(9) ルントク・ギャムツォ (1805-1815)
57.(10) ツゥルティム・ギャムツォ (1816-1837)
58.(11) ケドゥプ・ギャムツォ (1838-1855)
59.(12) ティンレー・ギャムツォ (1856-1875)
60.(13) トゥプテン・ギャムツォ (1879-1933)   偉大なる十三世。
61.(14) テンジン・ギャムツォ (1935-)      現ダライラマ猊下。1990年ノーベル平和賞授賞。                       


4.チベットの開国説話と観世音

 観世音の化身であるものがチベットの王となるべき必然性はさらに説明を加えなければならない。実は、チベットには他にも持金剛菩薩や文殊菩薩や金剛手菩薩の化身の僧が存在しているのである。なぜチベットを主宰するのはダライラマであって彼等ではないのか。この点を明らかにするためには歴史的事情を追求するのも重要であるが、傍らに、物語が果たした役割も知らなければならない。
 前出の転生譜に挙げられた人々にはそれぞれ物語が書き残されている。インドにおけるダライラマの前世者の物語はドムトンの前世譚として「ドムトン・ゲルワイ・ジュンネーの転生譜、カーダム子法二十章」並びに「クトゥンの二法」に記されている。またチベットの前伝仏教期における前世者の物語は民族の史書である『柱間史』『王統を明らかにする鏡』等の中に記されており、後伝仏教時代の前世者の業績は個々の聖者伝に記されている。ここでは前伝仏教期に現れたダライラマの前世者についての物語を開国説話の大略の中で見て行きたい。
 遠い昔、観世音はチベットの有情を教化しようと思い、阿弥陀仏の御前で「全ての衆生を菩提の道に導きたいと思います。その目的を果たさないうちに自分だけの安穏を一瞬たりとも求めたなら、私の頭は十に砕け、身は蓮華の花びらのように千に砕け散るように。」との祈願をたてた。
 そのころ、現在のラサの地にはオタンという名の湖があり、無間地獄の地であった。観音菩薩はこの地獄で苦しむ人々をマルポリの丘からご覧になって、その有情の苦しみを思って涙を流された。その左右の目から落ちた一滴の涙はそれぞれ地に落ちるやいなや美しい緑ターラ菩薩、白ターラ菩薩に変じた。そして、
 「チベットの有情のために苦しむ事はありません。私も有情を利益するお手伝いを致しましょう。」
 と述べるやいなや、再び、それぞれ右目と左目に融入していった。
 それから観世音は度し難いチベットの有情を苦しみから救いつづけたが、ある時、大変お疲れになって瞑想に入られた。瞑想から目覚めてマルポリの頂からまたオタンをご覧になると、まだまだ沢山の有情が苦しんでいたので、観世音の心は大変暗くなり自分一人が安楽であればいいと一瞬心に思い浮かべた。その瞬間、古の祈願の力によって観世音の頭は十に、身は千に砕け散った。そこに阿弥陀仏が現れて、頭の十の破片を十の顔になおされて、その上に阿弥陀仏の顔をつけて十一面とし、身体の千の破片を手となおされて加持された。このようにして観世音は千手千眼となったために、この世のあらゆる衆生の苦しみを救うことができるようになったのである。
 そして、チベットの民の起源を史書はこう述べている。
 観世音の化身である猿の菩薩がチベットで修行を行っていると、ターラ菩薩の化身の岩の精が現れて結婚を迫った。破戒を恐れた菩薩の猿は観世音のもとに至って進退を問うと、結婚を勧められ、さらに、このチベットの地に未来において仏の教えが栄えて、とぎれることなく僧が現れるようにとの加持を受けた。こうして夫婦となった二人の間に生まれた子は、菩薩の父に似た子は心根が深く、信仰篤く、慈悲に溢れ、精進怠らず、善を好み、言葉優しいものとなった。しかし岩の精である母に似た子は欲望が強く、嫉妬深く、利を好み、敵愾心を持ち、勇気有るものとなった。二人の子孫は増えつづけ地を耕し町を築いた。これがチベット人の起源となったのである。この頃には王というものは存在しなかったが、それから間もなくして、ニャーティ・ツェンポというインドの王がチベットの地に現れて王となった (彼はチベットにおけるダライラマの前世者の嚆矢である)。
 それからしばらくして、観世音はチベットの衆生を教化すべき時が至ったことを知って身体から四本の光線を放った。右目から放たれた一筋の光はネパールに向かい、ネパールの国を光で包んだ。それから光は一つに収束してネパールの王妃の胎に入った。九ヶ月たってティツゥン妃が生まれた。左目から放たれた一筋の光は同様にして中国の王妃の胎に入り、月満ちて文成公主が生まれた。口から放たれた一筋の光はチベットのヤルタンに行き、ヤルタンの六字真言となった (六字真言とは日本の「南無阿弥陀仏」に匹敵する大衆性を持ったチベットの観世音の真言「オンマニペメフン」である)。最後に心臓から放たれた光はチベット王妃の胎に入り、ソンツェン・ガムポという法王になった。彼は13才で即位するやマルポリの丘に宮殿を建て、大臣をインドに派遣してインドの文字を学ばせ、それにならってチベット文字を作成させた。また、ネパールからはティツゥン妃を、中国からは文成公主を娶ってそれぞれの国の仏教と文化をチベットへもたらせさせた。この二人の妃はそれぞれ古に観音菩薩とともに誓願を建てた緑ターラ、白ターラの化身である。ネパール妃はオタンの湖を埋め立て、そこにトゥルナン寺を建立し、中国妃はラモチェ寺を建立した。それから王と二人の王妃はチベットに百八つの寺を建立し、チベットを文字どおり教化してから、生涯の最後においてトゥルナン寺にまつられた観音像の中へ溶入していったと言われている。
 このようにチベットの開国説話は観世音と深い関りを有している。チベットの民は観音の化身の子孫であり、その子孫を統べる王ニャーティ・ツェンポやソンツェン・ガムポは皆観世音の化身としてのダライラマの前世者であった。まさに観世音づくしの開国説話を知る時、ダライラマが観世音の化身であると信仰され、チベットの王たりえている事情を理解することができるであろう。

5.おわりに

 考古学や歴史学は化身の思想や開国の物語を「事実」としては存在しなかったことと片付ける。しかし中国が侵入してくる以前のチベット社会においては事実の歴史より思想や物語の方がよほど人物の行動や国家儀礼に影響を有していた。
 17世紀に、地域毎に分立していたチベット社会において全土に及ぶ権力を初めて手にしたダライラマ五世は、ソンツェンガムポにならってマルポリの丘に宮殿を建設し、ソンツェンガムポ縁の寺を復興し、観音の法を説いた。これらの一連の行動がソンツェンガムポの物語をプロトタイプとしていたことは当時のチベットの民ならずともすぐに理解できることである。これは廃藩置県を行って近代国家に脱皮していく日本に、天皇が現れ、そのイメージが『古事記』や『日本書記』に記された古代的なものであったという点に類似している (尤も背景となる思想がまったく異なるために、ダライラマと天皇とを安易に全面的に対応させることには賛成できないが)。
 ダライラマのイメージがチベットの開国説話と結び付いている限り、物語の生きている社会の中ではダライラマは絶大な権威を持つことができる。けれども、物語が力を失った時、ダライラマの存在自体が危うくなっていくことは言うまでもあるまい。現在物質文明の中で暮らすことを強いられているチベットの民は、急速に生活に根付いた仏教の精神文化を失いつつある。このような環境の中で14世猊下はチベットの民が望まないなら、「自分は最後のダライラマとなっても良い」とまで断言されている。しかし、ダライラマが現在のようにチベットの民をはじめとする世界の衆生の利益のために無私の活動を続け、新しい物語を作り続けていく限り、彼は観世音の化身であり続け、チベットの民は決して彼の存在を見失う事はないだろう。


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