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カルマパ報道に思う


 目 次

 (1) 嵐のカルマパ報道

 (2) チベット報道の問題点

 (3) 化身とは

 (4) 中国政府の自縄自縛

  

 

チベット報道

カルマパ17世即位記念本『転世霊童』


カルマパ報道に思う


 ゲルワ=カルマパがインドに出国したとの一報が流れた一月八日より、メディアには「転世霊童」「活仏」「ヒマラヤ越え」「中国の宗教政策への打撃」などの文字が踊った。五年前にパンチェンラマが失踪(拉致?) した問題の方が事件としては大きいと思うのだが、今回のカルマパ報道の方が質量ともに先年のパンチェンラマ報道をしのぐものとなった。その理由としては、ここ数年間に封切られたハリウッド映画がチベット問題にかんする一般認識を高めたこと、今回は中国だけではなくインドが絡んでいるため中国・インド関係ウォッチャーなどの興味をひいたことなどがあげられよう。
  興味深かったのは各メディアの対応の仕方であった。実は前回冒頭に述べたように、チベットをオリエンタリズム以外の視点をもって対応してきた日本のメディアは数少ない。したがって、事件の背景を考察するための情報ストックがないマスコミ各社は、こぞって「下手な鉄砲も数うちゃあたる」式の取材攻勢を、チベット通とされる関係各位に行ったのである。東洋文庫のチベット研究室にはチベット学会の名簿提出を依頼する電話が某大新聞からあったし(お断りしたそうな)、チベット関係のHPのサイトはわたしのサイトを含め異常なアクセス数の伸びを記録した。メディアばかりか一般の人々もこの事件を読めなかったのは同じらしく「無神論であるはずの共産国家中国でなぜ非合理的な活仏などが認定されているのか」「出国の原因となった黒帽子とは何か」「活仏ってダライラマ以外にもいたのか」など、もう悲しいほど低レヴェルの疑問が、筆者をふくめたチベットファンたちにぶつけられた。今にいたるまでチベットサイトの掲示板には、電波系から、愛国中国人に至るまで様々な人間が入り乱れ場の平安を乱している。


 チベット報道の問題点


 このような状況下すなわち、一定の制限時間内に何も情報のストックがない状態、から起こされた記事は、当然のことながら混乱し不正確なものとなった。チベット語の固有名詞は意味不明のカタカナ語にうつされ(『毎日新聞』のジャイン・カイン・ノルブってありゃ一体誰や? 答え→ゲルツェンノルブです。)、転生する高僧についての解説も歴史的背景も誤解をまねくような内容のものが多かった。これらは、すべてチベットの仏教・社会・文化に対する情報不足に起因していることは一目瞭然であろう。
 
 たとえば、メディアがチベットの地名・人名を誤記するのは、外国のメディアの綴りをそのままカタカナ読みしたり、チベット語を転写した漢字をそのままピンイン読みしたりしたことによって生まれたものだ。英語や中国語に通じる人はたくさんいてもチベット語を解す人がないため間違いは正されることはない。また、チベット仏教に付随する様々な現象の解釈に混乱が生じるのは、チベットの社会やチベット仏教世界の価値観・世界観を語れるチベット学の専門家が圧倒的に少ないからである。一方、中国政治学を研究する学者は数多いため、おのずと報道は中国よりの視点から発せられることとなる。近年になってやっと、中国政治学の分野でもチベットと中国関係を支配・被支配ではなく仏教に基づく特殊な関係のもとにとらえようとする傾向は生まれつつあるが、そのような立場をとる学者ですら、事例研究をおろそかにする政治学という学問の悪弊により、基本的な歴史認識は極めて混乱している。
 
 このような状況を踏まえた上で、今回の報道の本質にある「転生する高僧」の問題をここで取り上げてみたい。この問題ほどチベット的で我々の抱く常識なるものから類推し難い存在はないからだ。


 化身とは


 マーチンスコセッシ監督のハリウッド映画「クンドゥン」( チベット語で「御前様」の意味。もちろんダライラマを指す)のラストで、インド国境に至ったダライラマが、国境の兵士から身分を誰何されると、「わたしは一介の僧である。水たまりに映る月の影のようなものである」と答えるシーンがある。このような「一介の僧」「水月の譬え」はチベット人が、ダライラマをはじめとする「転生する高僧」たちの存在様態を表現する際によく用いられるレトリックである。ダライラマ五世 (1617-1682) が記したダライラマ三世、四世の伝記の冒頭には、「観音菩薩はわれわれ「命あるもの」(有情)の苦境を哀れんで、この世に化身をあらわす。それは王様、乞食、鳥、獣などの様々な姿をとり、地上におかれた水をはった器の中に、月が無数の姿をあらわすように無数にあらわれる。とくに チベットの地は、経典によって観音菩薩の化身によって導かれることが預言されているため、開国の王ソンツェンガムポ王からはじまり無数の観音菩薩の化身が現れた。」という内容の話が記されている。
 このことからもわかるように、転生する高僧たちとは、悟りに至ったものが「命あるもの」に対して抱く哀れみの意識 (菩薩) が、この世に具象化 (化身) した存在なのである。化身とは本質的存在 (悟りの意識) から照射された影にすぎず、実体的な捉えられ方はされていない。「すべての現象は関係性の中において存在するかのように見えているだけで、実体というものはない」このような「空」思想が社会の底辺にまで浸透しているチベット世界には、単純な意味での個人崇拝などは存在しない。人は転生する高僧たちを尊ぶが、その崇拝は彼らの肉体に対してではなく、その背後にある月 (本質的存在) すなわち、「命あるもの」に対する哀れみの心に対して向けられているのである。このような論理に基づく「転生する高僧」すなわち、「化身」は現在も無数に生まれつつある。
 
 たとえば、ゲルク派の僧トゥプテン・イェーシェーは、亡命後いちはやく英語を習得し、アメリカやヨーロッパで精力的な布教活動を行い、ゲルク派の世界ネットワークである大乗仏教保護財団 (FPMT) を作り上げた。その彼が1984年に持病の心臓病で亡くなると、スペイン人の信者の家庭に転生した話は有名である (cf.『奇跡の転生』文芸春秋。この事件に着想を得て作られたのがベルナルド=ベルトリッチ監督の「リトル・ブッダ」である)。この事例から明らかなように、現象レヴェルでの転生とは、高僧が現世でやり残した仕事を全うするため、残された信徒の強い求めに応じておきるもの、と考えられている。したがって、「化身」は宗派のトップや大寺院の座主クラスばかりではなく、草の根レヴェルの布教活動の中から現在も生まれ続けているのである。

 
 中国政府の自縄自縛

 
 このチベット仏教の化身理論はかつてのチベット社会を強く規定してきた。超常レヴェルの存在論に基づいて転生を重ねる高僧たちは、宗教国家チベットにおいて俗世の王をしのぐ富と権威を獲得したのである。このあり方が中国共産党によって批判され、中国軍の侵攻とともに多くの高僧たちを亡命させる原因をつくった。つまり、ダライラマ、パンチェンラマ、カルマパなどの化身たちの亡命問題は宗教問題であると同時に政治問題なのである。
 
 チベットを占領した中国政府はじきに宗教国家チベットの民をまとめるためには、共産思想だけでは不十分で、どうしても化身僧が必要であることに気づいた。そのため、1959年にダライラマが亡命した後は、パンチェンラマ10世を優遇して人心を収攬させた。しかしパンチェンラマが1987年に亡くなると、今度は1992年に現在のカルマパ14世を公認した。しかし、このカルマパも出国した今、チベット本土の著名な化身僧はほとんど底をついてしまった。そもそも、チベットの民を導くという神話が備わっているのはダライラマのみなので、たとえパンチェンラマであっても、カルマパであっても代わりはつとまらないのだが。このような化身僧を認めなければチベットがまとめられない中国政府も、苦労されていることと思う。「チベットは歴史的にいって中国の不可分の領土である」といったごりおしテーゼは、今や中国政府自らがその行いで否定してみせているようなものである。
 
 今回のカルマパの出国劇も、このような中国政府の対応のゆがみが象徴的に露呈したものである。いったん化身に選ばれた子供は、宗派の伝統をしょってたつ存在として宗派の教学を学び、実践修行も行わねばならない。しかし、中国内チベットにはかれにカルマ派の法を伝えることのできる高僧たちはおらず、歴代カルマパが剃髪の際に戴冠した黒帽子もシッキムのルムテク寺院にありかぶることができない。カルマ派の伝統はすべて国外にしか存在しなかったので、14才になったカルマパが、宗派の伝統を身につけるため出国の道を選んだとしても何ら不思議なことではない。中国政府としても彼を非難することはできまい。そのようなものとして彼を認定したのは中国政府なのだから。もしカルマパを非難するのであれば、カルマパの存在を政治目的に利用していたことを自ら認めるようなものである。
 
 最後に「転生する高僧」関連の言葉で問題に感じた表現について付言しておきたい。まず各社こぞって用いていた「転世霊童」という表現は、中国語をそのまま無批判に転用したものであり不適切である。化身僧を子供に限ってさす言葉はチベット語には存在しない。また、筆者もこれまで意識せずに用いてきた「活仏」(いきぼとけ)という表現も、これにあたるチベット語が存在しないこと、実体を備えた仏といった意味に曲解されやすいことから不適切なように思われる。「転生する高僧」は、対応するチベット語の「化身」(srpul sku) という言葉をもって表現するのが一番いいのではないかと思う。
 


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