Vijay Kranti の Dalai Lama Speaks (Potala Corporation, 1990)
より、抄訳しました。 この本の著者はチベット通でチベットウォッチャーなら一度は聞いてみたいという内容を聞いてくれているので面白い!
Q かつてあなたは一国の長であったのに、いまや状況が変わって難民となってしまいました。それを悲しいと思うことはありますか?
DL そんなには悲しくありません。非常に個人的なレヴェルではわたしはいつも自分を比丘、すなわち一介の出家僧にして、国と生活を失った一人の人間だと思っています。もちろん悲しいですが、いいこともあります。たとえばチベットにいる時、わたしはたくさんの物を所有していました。役に立つ者もありましたが大半はそうでないものばかりでした。そしてわたしはそれらすべてをダライラマの財産として持たねばなりませんでした。
亡命した当初インドに来たばかりでムズリー落ち着いた時、わたしの個人的な所持品は四五箱しかありません。でもわたしは幸せでした。三十年たった今箱の数は増えましたが、それだって扱える範囲内です。これはある意味ではいいことです。もし私がチベットに残っていたなら、愚かしい重荷をもっと抱え込んでいたでしょう。ものをためこむことに理論的根拠はありません。
Qこの三十年にわたる亡命生活はあなたにどのような影響を与えましたか?
DL総じて言えば悲しい時代ということでしょう。チベット国家史上もっとも暗い時代でした。個人的にも辛い時代でした。しかしこの困難と問題は人を現実に肉薄させます。そして内なる力を強めてくれます。その意味では確かに私にとっていい日々でした。もし中国が来なくてわたしがチベットに今もいて安楽に笑って暮らしていたら、わたしは皮相な人間になっていたでしょうね。つまりこう言えるでしょうね。この経験は私を善い人間、より賢くより現実的な人間にしたと。
Qこの変化はあなたあるいはチベット人に特別な力を授けたと?
DLそうです。60年代初頭、友人は「チベット問題はもう終わってしまった。チベットは永遠に地上から姿を消すだろう」と言いました。しかし、我々は決心を変えず、結果としてチベットはまだ生きています。問題は死んだとはいえません。中国はこの30年間ずっとチベットに対し無頼漢のようでした。それがチベットの決心を強めたのです。チベット人は少なくともこの点では中国に感謝するべきでしょう。
Qあなたにはどんなよいことがありましたか?
DL国家とか信条の違いとかを越えたところで、友達が増えました。また、旅行ができるようになりました。中国の政府と激変した状況のお陰で、ダライラマの知名度はあがり、すべてのチベット人が自らのリーダーとして認めるようになりました。もし私がチベットにいたなら、たくさんの人々がわたしに反抗しあるいはその存在すら知らないという状況であったでしょう。
Qそれはどうしてですか?
DL一国の王としては、仕事が多すぎて国民の望むことをできません。〔しかし難民になった今、国王の仕事はなくなり旅行がてきた結果〕わたし程写真とられたダライラマはいないし、BBCや国際プレスにインタヴューされたダライラマもいませんよね。これが、現在のダライラマが最も重要とされ、中枢の人とされ、そのうえ最も悲劇的なダライラマであるゆえんです。
Q宗教と政治いずれの人格があなたの中では優勢ですか?
DL一介の僧です。つつましい比丘です。わたしの潜在意識の中では一介の僧という感覚がもっとも強いです。夢の中ですら私は自らをチベットの国王としてではなく一介の僧としてみています。
Q国際政治にかかわるお気持ちは?
DL率直にいって嫌いです。しかしやらざるを得ません。顔で笑って心で別のことを考えている人を見るのはいやなものです。言葉と行動が一致しない人です。そういう人たちに何度もだまされてきました。
Qチベット人はあなたのことを慈悲の菩薩である観音の化身と信じています。自らそう感じることはありますか?
DL祝福されたものの化身であると認識しています。テンジンギャムツォが前代のダライラマ達とあるつながりがあるという信仰を裏付ける確定的な徴もあります。そして、前代のダライラマは観音とリンクしています。また一人の仏教徒として、私は業の力なくしてこのようなことは可能ではないといいたいと思います。
Q歴代ダライラマのうちでどなたが一番あなたに感銘を与えたダライラマですか?
DLダライラマ五世でしょうか。彼はすべての宗派に通達していましたが、専制的でありました。わたしはソフトすぎますが。チベットにいる時田舎にいってそこで一人の農夫と知り合いになったことがあります。わたしはダライラマの随行員であるようにみせかけていました。後日彼はわたしを壇上で見つけてびっくりしていました。わたしたち二人は二人の間でしか分からない方法で合図しあいました。こちらから心を開けば他方も同じように答えるものです。あなたは私のことをどう思いますか? 私はいつも自分は群衆の一人であり、一国の長だとか偉い人だとか感じたことはありませんが。
Qわたしもあなたのあけっぴろげ主義に感化されたクチです。
DL五世はそういうタイプの人ではありません。権威主義者でした。二世はそうでなかったので二世も好きです。彼はソフトで教養があり、学者でした。
Q あなたは五世のようになりたいですか?
DL 自分からすすんでなりたいとは思わないが、状況が許すならそうなるだろうし、五世のように振る舞いもするだろう。二世は非常に宗教的な心をもっていたがその興味はゲルク派のみに限られていました。ラマとしてはそれでいいでしょうが、ダライラマとなるともっとすべての宗派に通じなければね。
Q ダライラマ13世と話したことある?
DL彼はタフな人だ。夢で会うことが時々あります。たとえば、わたしは最近ダライラマ13世と夢で会いました。我々はチベットについて論じました。2-3年前、わたしがチベットにいるとき五世ダライラマと同じように夢であったこともあります。偶然、私が過去に見た夢が私の転生はインドからくるであろうというものもありました。しかし、これは別のテーマでいま話すことではありません。
Q 新しい状況下において、あなたはダライラマ制とチベットの運命が初めての脅威に直面にしているとは思いませんか? チベットは今や中国に占領されており、あなたの転生者はどうなるのでしょうか? 中国はあなたの死後すべてを彼らの思うとおりに処理してしまう可能性もありませんか?
DL わたしはそのことについて何度も思いを巡らしました。この質問は友人達からも何度もされています。わたしはこのことは大きな問題ではないと思います。まず、歴史は全てのダライラマがチベット出身者でないことを示しています。たとえば、第四世ダライラマはモンゴルの出でした。
一番重要なのは、世界はつねに変化しているということです。チベットの習慣、チベットの制度、生活の仕方、考え方、これらすべてが変化しつづけています。しかし、チベット民族は残るでしょう。現在、ダライラマ制はチベットの象徴のような立場にあります。したがって、チベットの友人達はダライラマなくしてはチベット民族は存在しないのではないかと畏れ始めています。しかし、本当のところはダライラマ制も含めたいかなる制度であれ存続するには、チベット民族が存在しなくてはなりません。
Q 二〜三年前あなたは自分が最後のダライラマになるかもしれないと述べました。
DL ええ。私はそう言いました。しかし、私が真に言いたかったことは、「もしダライラマ制度がチベットの利益にならなくなった場合そのときにはダライラマ制を維持する必要はない」ということだったのです。この制度が継続すべきか否かは、完璧にチベット人がそう希望するか否かにかっています。
前の質問に戻りましょう。現在のダライラマが死んだ場合、何が起きるかということですが、現在の状況は私の後にもダライラマを必要としていることを示していると思います。ここではっきりさせておきたいことは「ダライラマの化身あるいは転生は決して中国人の手の内にはない」ということです。なぜなら、ダライラマ──私の今言っているのは今のダライラマのことです──は危険に迫られて自分の国を意志を持って離れたからです。この事実は一つのことをはっきりと示しています。もし現在のダライラマが転生するならばその化身はとても特殊な目的のもとに転生するだろうということです。なぜならば、その前の生において自分の国を意志的に離れてある特定の目的をもってインドで暮らしているのであるから、その転生者もまた中国ではなくその地域(インド)に再び現れることは確定的だからです。それは確実です。でなければ、私が亡命してチベットの自由のために働いていることとつじつまがあいません。
Q では、何があなたをして「最後のダライラマ」と言わしめたのですか?
DL ああいった背景には、きわめて政治的な理由があります。当時、といっても今もですが中国政府はわざと全チベット問題をダライラマ個人、あるいはダライラマ制に矮小化させようとしています。これは世界の関心をチベット問題の核心からそらそうという、実に巧みな工作でした。わたしが問題はダライラマ14世テンジンギャムツォにあるのでも、次代のダライラマにあるのでもなく、600万チベットの民にあるといつも主張しています。本当に問題とすべきは600万チベット人とその未来、そのアイデンティティ、福利と幸福なのです。
わたしは自分の幸せや個人的な未来には関心がありません。ダライラマ制の未来なんかについてはさらに関心ありません。今ここで真に危険にさらされているのはチベット民族とその文化です。ダライラマ制は民族と文化に仕えるものにすぎません。もしこの二つがなくなってしまったなら、ダライラマやダライラマ制に何の意味があるでしょうか?ダライラマ制だって消滅しますよ。ですから、もし、大多数のチベット人がダライラマ制が無用であると感じたなら、そのときは自然消滅です。その場合、私は自然に「最後のダライラマとなるでしょう。」
Q 将来も、ダライラマが現れると思いますか?
DL 今の時点でいうのは難しいです。これから十年から二十年の間に決まるでしょう。チベット人はまだなおダライラマを欲っしています。現実にこれはわたしの関心事ではありませんが、もしチベット人がダライラマを望むなら、そのときにはダライラマは現れるでしょう。もし状況が変わってチベット人の大多数がダライラマを望まなくなったなら、私は最後のダライラマになるでしょう。将来ダライラマが現れるか否かは、私の責任ではありません。現在五歳、六歳のチベット人の責任です。ですから、二十年、三十年たって私が亡くなった時、彼らが決めることでしょう。
Q 長生きしてくださいね。
DL 私の夢によれば、私の寿命が最も長くなった場合、110から113才くらいなるようです。しかし、そんなに長く生きることはできません。80才から90才の間くらいまでは生きるでしょう。それ以上になったらもう役立たずになりますね、老いたダライラマに価値はありません。