[石濱裕美子の部屋に戻る]

石濱純太郎先生と私


  ごろうちゃん:

 「石濱純太郎先生は東洋学のパイオニアとして『東洋学の系譜』(大修館)に名を連ねる大学者です。

 また、世界最古のチベット学会、日本西蔵学会初代会長でもあるんだ。

 最近、ママは自分のルーツを探っているうちに、何とこの大学者と縁続きであることを発見したのだ!

 以下、淡路島探訪を含めた、最新レポートを公開!」



ことのおこり

 この世界に入って以来「純太郎先生のご親戚ですか?」と何度きかれたことか。その度に、「さあね〜」と答えを濁してきたが、実際、ご先祖のことには興味もなかったし、そもそも石濱家は若死の家系で、気がついたら前の世代はみな死に絶えて自分の世代しか残っていなかった。当然親戚関係は薄切りハムよりも薄い状態。調べる気もなかった。

 しかし、1998年1月、本当にたまったまっあった法事で、ご先祖のことに話が及び、もう40代のいとこが父親の生前 (いとこの父親は彼が15才の時に死んでいる) にきいた話として、関西大学の純太郎先生と我が家は親戚であるとの話がでた。

 まさかと思っていた話が本当だったのだ。

 わたしは母に育てられたから父の影響はない。それなのに純太郎先生と同じ東洋学 (それもチベット・モンゴル学) を専攻したことに、何か血の因縁を感じた。

リサーチ開始

 そこで、純太郎先生についてよくご存じの大庭脩先生を佐藤長先生にご紹介いただいて (先生はご自身の名刺の裏に推薦文を書いてくださった。さすがに粋) あつかましくもお便りをさせていただいた。

 大庭脩先生からは純太郎先生のご子息典夫様の住所と『東洋学の系譜』に先生ご自身が記された純太郎先生の伝をおおくりして頂いた。『東洋学の系譜』によると、純太郎先生もわたしの祖父母と同じく淡路島の出身であった。

 おりしも、淡路島を本州と結ぶ明石海峡大橋が開通した。神戸からたった一時間半で淡路島の中心部につくことが可能になったのである。

 運命の不思議を感じた。

 早速、典夫様にご連絡してみると、やはりこちらと縁続きであるとの話をきいたことがあるそう。両家の口伝が一致したのである。

淡路島で

 6月、国立民族博物館で例会がある機会を利用して淡路島に初上陸した。わずか数時間の滞在であったが、胸にせまるものがあった。

 実際に祖父母の生きた地を目にすること、戸籍をとることが目的であったが、それ以上のものがあった。

 父も母もいない今、それでも自分がここにいるこの縁に不思議な感動を覚えた。

 同日、淡路島からとんぼ返りしてターミナルである神戸の三宮でふらふらしていると、たまたま古本屋街をみつけ、そこに郷土史の古本屋「ロードス書房」があった。ロードス書房の親父は当然わたくしより淡路島の歴史に詳しく、いろいろなことを教えてくれた。

 何かご先祖様が見えない糸でわたしを導いてるようである。あるいはRPGか。 

図書館で

 淡路島から戻ると、ロードス書房の親父のすすめる本などを求めて戸籍を片手に大学の図書館にもぐった。専門の勉強でもこれくらい真面目にしたことはあったろうか。いや、ない。

 それでわかったことだが、まず、父方の祖母は岡田鴨里の曾孫と戸籍にはあったが、この鴨里は頼山陽の高足で、山陽の『大日本史』の補筆をし、歴史書をいくつか書いていた。子孫であるわたしはまるっきり知らなかったが、淡路島では結構有名らしく『洲本市史』をはじめとする地方自治体編纂史料には必ず記されていた。

 またまた、血の因縁である。

 また、祖父の祖父は江戸末期、徳右衛門という名前で、町手代をつとめていた人物であることがわかった。

 

再び淡路島へ

 11月、甲南大学で学会がある機会を利用して再び淡路島にわたった。

 島にわたるという雰囲気をもりあげるため、今度は関西空港からジェットフォイルで上陸することにする。しかし、関西空港にはKONISIKIがいるし、ジェットフォイルはたった35分で淡路島につれていってくれたりするわであまり雰囲気はでなかった。

 今回は、またまた半日しか時間はないため、純太郎先生のお墓参りでもできればとの軽い気持ちである。(しかし、お寺の名前すら知らない。この計画性のなさ。)

 日本史はパーなので、現地史料をみてもアカンだろうなとは思いつつ、私の足は淡路島歴史民俗資料館に向かっていた。

受付では折しも花粉症に苦しむ野口研究員がおり、彼は私の突然の来訪にもかかわらず、いろいろなことをこころよく教えてくださった。野口さんに淡路島の歴史家の先生をご紹介して頂き、その方のおかげで純太郎先生のお墓のあるお寺もわかった。洲本の遍照院というお寺で、真言宗高野山派で宗派が我が家と同じであった。(当然か)

 翌日 (急遽淡路島プリンスホテルにとまった。あのプリンスホテルとは関係なし)、遍照院を訪れると、ここのご住職はいきなり、本当にいきなり現れた私をいやなかお一つせず、お寺にあげ、 (信じられないよな)、暖かいおもてなしをしくれた (お菓子ももらった)。何とご住職のご息女はチベットがおすきで、ダラムサラにも行ったことがあるとの人で、わたしの専門に理解を示していただけたのだ。

 住職につれていっていただいた純太郎先生のお墓には、西夏文字で東という文字が刻まれ、そのご長男の生前墓には川端康成の筆が刻まれていた。

石濱記念文庫講演会

 それから、一週間もたたずに、石濱記念文庫の記念講演が、大阪の千里であった。ハードなスケジュールであったが、是非とも参加したかった。五年に一回しかない講演の年が、今年であるのにまたまた因縁を感じたからだ。

 毎回、純太郎先生や純太郎先生の学問にゆかりのある方々が講演をすることとなっており、一階でポスターを見ると今年は大庭先生と純太郎先生の孫の石濱紅子さんだった。

 しかし、会場についてみると、まだ30代の若さの紅子さんが体調不良のため欠席で、父上であり純太郎先生のご長男である恒夫氏が講演をすることとなっていたのである。わたしは例によって迷わず、受付にたのみこみ、会食の席に関係者ということで乱入して車椅子姿の恒夫氏にお目にかかることができた。

 お話を伺ってみると、恒夫氏の仏壇には代々の位牌があり、その中に徳右衛門の名が見いだせるそう。つまり、東京・石濱と大阪・石濱の家系は徳右衛門のところでどうやら交わるらしいことがわかった。

 遠い祖先ではあるが、確かにわたしの中には純太郎先生と同じ血が流れていたのである。



[石濱裕美子の部屋に戻る]