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世界一過酷ツァーガイド


Study Tour・in・Tibet

← 赤宮二階の壁画より、サンゲギャムツォ四部医典の挿絵を描くの圖


 2002年8月18日、チベットの歴史を学ぶためのスタディツァーの講師に招かれ、わたくしは成田を飛び立った。この旅はチベット史を古代から現代にまで現地で体験しちゃおうという企画で、ポタラ宮をはじめとする代表的な観光地は無論のこと、私の趣味で選定されたオタクな訪問先、古代チベット王家の墓、ポタラ宮の薬師堂、ダライラマのシャーマンが常駐していたネチュン寺など、が組み込まれている。個人では移動その他がネックとなってなかなか行きにくい場所について、これを機会に行ってしまおうというのが私がこのお仕事を受けた動機である。
 しかし、お気楽な観光旅行ではすまなかった。思えば、今回は出発前からすでに不穏な空気が漂いまくっていた。成都直行便で乗り込むはずが、オーバーブッキングが発生したことにより、北京経由に変更がなされた(その上北京発は遅れまくり)上に、わたくしはその一週間前から気管支炎を起こし、微熱と咳がとまらない状態であった。講師は大声でわめかにゃならんのにどーするんだ。
 かつ、出発日の朝は台風十三号が関東に最接近ときたもんだ。十三号──十三日の金曜日、十三階段、アポロ十三号──不吉な数字である。しかもテレビは異常気象による長雨によりヨーロッパ、ネパールの洪水被害を伝えていた。いやな出だしである。

〔19日〕チベット入りを果たす。コンガ空港において、昔なじみのカルマさん、ひもなしバンジーBさん、人類学者の卵Mさんなどが合流し、しのつく雨の中、ジープに分乗してツェタンに向かう。途中、ニンマ派の二大僧院の一、ミンドゥルリン寺による。ミンドゥルリン寺は17世紀にダライラマ五世の庇護のもとに建てられたもので、折しもカムのリンポチェによる法要が挙行中であった。夕方には古代チベット観光の拠点ツェタンに着く。午後は高山に体を慣らすために自由時間となったが、部屋でたき火をしたいくらい異常に寒いので、セーターを求めて市中にくりだす。しかし、日本ではユニクロで格安で手に入るような洋服が、こちらでは高い上に仕立てもセンスも悪い。購買意欲がわかずに迷っていると、ツァーのお客さんが長袖のお洋服を余分に持ってきたので貸してくださるという。お言葉に甘えてありがたく拝借させて頂く。
 しかし、お客さんの下準備はスゴイ。わたしは、

↑ラサの入り口。金城公主のたてたパルゴカリン

「何か足りないものがあっても、現地で買やーいいわ」

と軽装であるのに引き替え、彼等のスーツケースの中からは、ドラえもんのポケットのごとくいろいろなものが出てくる。さらに、あるお客さんなどは、このツァーに備えて乗鞍岳に一回、富士山に二回上ったという。私がこのツァーに備えてやったことと言えば、JRの高田の馬場駅から大学まで徒歩二十分をバスを使わないで歩くようにしただけである(それも夏休みに入ったので中断)。
 しかし、彼等もソフトの準備はいまいちと見た。とあるお客さんは、突然尿意を催し(高山病の薬ダイアモックスを飲むと頻繁に尿意を催す)薬やさんにとびこんで、トイレを借りようとした。しかし、「トイレ」という言葉がチベット語でも中国語でもでてこなかったため、前を押さえてゼスチュアでトイレを表現した。すると、そのバアさん、棚から何か薬をだしてきて、見るとそれは

淋病の薬(笑)であった。

 負けずに、ベトナム座りをして、トイレにいきたい、とさらにアピールすると、またまたそのバアさん、棚から何かをとりだしてきた。見ると今度は痔の薬(爆笑)。

デプン寺の「見れば解脱する弥勒像」→

必要最低限の現地の言葉は覚えておこう。

〔20日〕午前にチョンゲー渓谷を遡り古代チベットの王墓群に向かう。昨日から降り続く雨により、道はところどころ崩れ、さらに道が川となっているため、川口探検隊の趣を呈してきた。
 王家の墓へのみちゆきは今回の旅で私がもっとも楽しみにしていたものである。チベットは7世紀にソンツェンガムポ王によってはじめて統一された。統一前、チベットの国土には夜叉女が覆い被さっており、それが人々の争いと分裂の原因となっていた。ソンツェンガムポ王は、その夜叉女の両手両足の端・関節・付け根の計十二カ所にそれぞれ寺をたて動けないようにし、とどめとしてその心臓の上にラサのトゥルナン寺を建てた。この説話は、自然(=混乱=夜叉女)が文明(=秩序=寺)によって征服されていく過程を象徴的に示したものである。10世紀に入ると古代王朝の崩壊とともにこれらの寺は衰退し、そのせいかどうか以後チベットは永らく地方分裂の時代に入る。しかし、17世紀にダライラマ五世が天下をとるとチベットはふたたび統一の道へと向かいはじめた。ダライラマ五世はソンツェンガムポ縁の古刹を次々と復興し、自らがソンツェンガムポ王の生まれ変わりであることをアピールした。そのせいかどうか、ダライラマ政権のもとチベットは未曾有の繁栄を極める。
 ソンツェンガムポ王とダライラマ五世の因縁はかくも深いものであるが、ダライラマ五世はじつはこの王墓の傍らにあるチンバタクツェの街に生を受けているのである。ソンツェンガムポ王の墓の上からチンバタクツェの街をみはるかす私の脳裏には、このようなチベット千三百年の歴史がよぎりまくる。そして、カメラを構え焦点を合わせようとするや、カメラ異常音だしまくりでブチ壊れ。去年に引き続いて初日の故障である。仕方なくツェタン滞在中はお客さんにカメラをお借りし、ラサに到着後はひもなしバンジーBさんのカメラを拝借することになる。

 どこの世界にお客さんに服やカメラをかりまくる講師がいようか。

 王墓には七世紀の遺物の獅子と碑文があったはずなので、その在処を尋ねると、獅子像は遙か上で時間的に無理だということで諦め、とりあえず、ティデソンツェン王代の碑文(あとで内容をアップします)を観賞する。
 午後、チベット最古の宮殿ユンブラカン宮にのぼり、後、ふたたび雨のそぼふるなかタドゥク寺へ。ユンブラカン宮の上り坂にひいこら言っているうちに咳が止まらなくなり、ものすごく苦しい。あまりに私の咳がとまらないので、一行は、私の咳を

「東京都認定石濱病」と称し始めた。

←隕石に浮き出た文殊像をお祭りするためにお堂を建てている(デプン寺)。

〔21日〕 ツェタンをたち、チベット最古の僧院サムエ寺にいく。サムエにいく通常のルートは舟をつかうが、またしても雨であるため陸路によることとなった。サムエ寺では折しもプルパの供養を行っており、全寺お香の煙で視界ゼロ。弱り切った私の喉は、この香煙にむせまくり、息も吸えない程苦しい。まじめに命の危険を感じた。注目すべきは中央大殿(ウツェ)の二階の階段の降り口近くにある壁画である。この壁画は誰がみてもダライラマ十四世の顔をうつしているが、老獪なことに文殊菩薩の姿をしていた(ダライラマなら観音の化身なので観音菩薩の姿に作るはず)。当局に何か言われても言い逃れができるように偽装したのであろう。自由な時代がきた暁には「ダライラマ十四世のことをおおっぴらに崇拝できない時代であったので、こう描いた」とか説明するんだろうな。
 その晩ラサにつくと、留学中の小林少年がホテルに迎えにきてくれていた。彼は私とすれ違いでラサを離れるはずであったが、何でも彼の乗るはずの飛行機が悪天候のため飛ばなかったためこれたのだという。にぶい私はこの話を聞いてもまるで人ごとだったが、これは後になって大きな意味を持つこととなる。

〔22日〕本日はいよいよポタラ宮訪問である。ポタラの中心部をなす赤い建物(赤宮)は、ダライラマ五世の摂政サンゲギャムツォによって1697年に建立されたものである。今回の旅の目玉は、この赤宮の二階にある薬師堂を拝観することにあった。ポタラ赤宮はカーラチャクラ曼陀羅にのっとっているため四階建てであるが、一階の部屋が二階まで吹き抜けているので二階は廊下しかないと思われ観光ルートにも入っていない。しかし、この二階には創建当初から一つのお堂がひっそりと存在している。それが薬師堂である。
 この薬師堂がいかなる意味を持つかについて簡単に解説してみよう。ポタラ赤宮の建立者サンゲギャムツォは、1683年にダライラマ五世が遷化すると、その死を隠して15年もの間政権を牛耳った。サンゲギャムツォは、1697年になって、五世の死とポタラ赤宮の完成を同時に披露したが、その際、ダライラマの名をかたってきた15年間の正当性を、モンゴルや中国の王侯に対してアピールせねばならなかった。
 そこで、サンゲはまず自らがダライラマ五世の政権を引き継いだ正当性を、前世の因縁に求めた。彼は自分の前世はつねにダライラマの前世と、父子、師弟関係にあったとし、子が父より、弟子が師匠よりその責任を引き継ぐのは当然であると主張した。また、ダライラマが観音菩薩の化身であるように、自らは文殊菩薩の化身であるとし、ダライラマと同格の神性をも主張した。ここで気を付けるべきは、観音菩薩の本性は西の仏阿弥陀仏であり、一方の文殊菩薩は東の仏薬師仏と関係が深いことである。つまり、かくれるように築かれたこの薬師堂とはダライラマの堂ではなくサンゲ堂なのであり、さらに言えば、二階回廊の壁画もダライラマの死後サンゲが15年間政治を司っている間の話を描いたもので、彼の言い訳の一部とみなすことができるのである。つまり、ポタラ宮とは、ダライラマ五世に捧げられた宮殿であると同時に、その摂政サンゲギャムツォの言い訳の集大成と見ることもできるのである。

 薬師堂の鍵をもっているお坊さんがなかなか現れず、さきに四階まで観光して待つことしばらく、やっと薬師堂に入れることとなる。堂の入り口にはドラム缶が置かれており、中身は見事に物置状態。薬師仏の立体マンダラは仏さんが全部なくなっており、どの仏さんがどこまでがもとからいたものかもよくわからない。しかし、現状の確認はとれたのでよしとする。
 午後は定番のトゥルナン観光。その後、人類学者のM君にチョカンの裏のニンマ派の寺、チャムカン、ゴンカン、ムル寺、などを案内してもらう。UVサンバイザーにマスクをつけて巡礼路(パルコル)を歩く私の姿は異様なので、添乗さん、カルマさん、ひもなしバンジーBさんに「左翼運動家のようだ」と笑われる。

〔23日〕 午前中にデプン寺訪問(ダライラマ政権の発祥の地として、また現在も機能している僧院としてルートに加えた)。バスを降りてもけっこうな上り坂があり、毎日四時におきて咳き込んでいる身にはこたえる。「見るだけで解脱できる」(mthong grol)巨大弥勒像とか、隕石に浮き出た文殊像とか、(わざと消していない)文革中の落書きとか、結構イカした出し物があった。
 次に、かつてはダライラマのシャーマンが駐留していたネチュン寺に向かう。シャーマンはダライラマについてインドに亡命しているため不在ではあるが、入れ物の寺の方は復興が進んでいる。ニンマ派らしく、扉には人体の解体図が、柱には蛇がまきつく絵が描かれていてグロテスクきわまりなし。さらにご本尊のドルジタクテンは、赤のライトアップがなされ、いかがわしい雰囲気をいやまし。その上、坊さんがお酒を飲んでいるので(ニンマ派では僧侶でも飲酒・妻帯が許される)部屋が酒臭い。
 午後はダライラマの夏の離宮ノルブリンカ、ポタラとセットになる薬王山と訪問し、現代史の解説をしてこの旅をしめる。
 最後の夜は舗装もされていない道を通って郊外の民家を改築した料理やでチベタン鍋を食する。食事の後、衝撃の事実が明らかにされた。ここ数日の悪天候のためにラサからのフライトが二日間飛ばず三千人からの待機客が空港に溢れていて、明日のフライトに乗れるかどうか分からないというのである。どうもラサに来てからの添乗さんの表情がおかしいとは思っていいたがそういうことだったのか。〔学生と退職者を除いた〕一行の雰囲気は暗く沈みこみ、みな一気に現実に引き戻される。

〔24日-25日〕翌日、先行き不透明なまま空港に向かう。しばしバスの中で待機していると、添乗さんが走ってくる。何と、現地の旅行社が空港に泊まり込んでねばってくれた結果、奇跡的に当初予定していた便に乗れることとなったのだ。嬉しい。機内では日本軍が暴虐の限りををつくす映画がかかっていて、相変わらずである。しかし、ストーリーが展開するにつれ、いつもの反日一辺倒の映画ではないことに気付く。時は1945年の終戦の年。場所は中国東北部、混乱の戦場で、ロシア人の女性軍医と中国人の男と日本人の女の子(この子はなぜかミニのセーラー服。この時代はモンペだろう)がたまたま一緒に逃避行することになる。ロシア人の女と中国人の男は日本軍の暴虐さを思い出しては、何度もこの女の子を殺そうと思うのだが、どうしても殺せない(しかし、この日本人役が野村○千代みたいなオバハンだったらすぐ殺されるんだろうな)。そのあたりの葛藤をえんえんと描いたあげく、逃避行の中で三者の間には一種の友愛が生まれ助け合って戦場を生き延びるというお話。かつて、中国の映画にでる日本人役と言えば、バカヤロウを連呼する醜男軍人が定番であったが、このように日本人役にカワイイ女の子を配役し、個人としての日本人を好意的に描けるようになったのも時代の流れであろう。翌日、上海につくが、世界一いやみな中国人ガイドに不愉快となり、こんな中国人に支配されるチベットも大変だなあとしみじみ思う。

総括(日本赤軍ではないよ)今回はスタディツァーということもあり、時間を見つけてはチベット仏教の話をした。当然、


「菩薩とは他者の苦しみを観るに忍びないため、あえてこの輪廻の世にとどまり、転生を繰り返し人々に救い続ける存在である。ダライラマ猊下が転生を繰り返しているのもそのためです。人として生を受けたのだからできればこのようにありたいものです」

↑仏様の台座に刻まれた、招き獅子


とかいう話になる。しかしいざ飛行機の席がとりあいになった最終日、「自分は最後でいいから困っている方がこの席に」とかいう気にはならかった。一週間にわたる聖地巡礼も、数々の祝福も、スタディも、度し難い煩悩には勝てなかったということですな。なーむー。

後日談:成田空港にはダンナが迎えにきてくれていたが、昨晩三十九度の熱が出ていたとかで顔がむくみまくっていた。その後数日たち、メンバーの一人にメールを入れると、返事が来た。それによると、三十九度の熱をだして倒れ、三日も会社を休んでしまったという。

 その翌日、添乗さんから電話があり、

「ご挨拶が遅くなってすみません。三十九度の熱をだして寝込んでいまして今日やっと出社したんです」

電話を切ってしばし「東京都指定難病 石濱病」という言葉が頭をかけめぐった。



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