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ラインのほとりでチベット学会 (IATS2006)


 国際チベット学会(IATS)は、三年か四年に一回開かれるチベット学祭りである。世界中から専門家(好事家も含む)のさまざまなチベットオタクがあつまり、チベット人も中国内・中国外両者から出席者をつのる、いわば国際チベオタ同窓会である。パネルは仏教学・歴史学などの伝統的な学問から、人類学・環境・ジェンダー・テクノロジーとなんやらかんやらわからんものまで増殖し続け、最近は全体として何をしたいのかわからない、ぬえのような学会となっている。おかげで伝統的な学問の専門家は最近この学会を敬遠しつつある。

 わたしは前回のオックスォード、前々回のライデンと二回にわたり欠席したため、そろそろいかないとまずいかな〜と思い、今回のドイツ会場には出席することとした。

 でも、やめときゃよかった。

日曜日

 ながいながいフライトがおわり、やっとケルン空港につくと寒い。セントアンドリュースでの真夏の極寒体験により、少し賢くなった私は裏地つきのハーフコートをいれておいたので、ヨユウである。しかし熱帯の日本からきているので歯の根があわない。空港バスでボン中央駅につき、開催地のホテルのあるケーニスウインターだかなんだかという驛に向かう。地下鉄の66ホームにつくと、何かオスロからきたチベット学会へいく集団と出会う。彼らはヨーロッパ人なのだから、私よりはドイツに詳しかろうと彼らのあとについて行くことにする。しかし、地下鉄は途中で止まって車庫入り、車掌はわれわれに「車庫から折り返して路線にもどるのをまち、次の驛でまたむかいのホームにいって反対側の列車にのれ」と告げた。そこで、その電車が折り返し線路にもどるのを、そのまま乗って待って次の驛で向かいのホームにわたろうとエレベーターにのると、エレベーターは外へ。

 わたしがこのオスロからの一行を冷たい目でみたことは言うまでもない。

 あとで聞くと、ノルウェーはヨーロッパの田舎であり、あそこの第二の都市ベルゲンは数万人しか人口がいなくて、「イシハマさんのすんでいる○×驛くらいの規模があったらノルウェーでは副都心ですよ。」といわれる。へとへとに疲れてホテルについたので、チェックインの際、パスポート入りの書類ケースをレセプションにわすれ、あきれられる。風呂場で転倒して左肘と右後頭部となぜか左後頭部にこぶをつくる。この時点でもう日本にものすごく帰りたくなる。

月曜日〜火曜日

 歴史関係の発表は主に月曜と火曜日で、そのあと知り合いの日本人の発表が続き、水木はあまり関係ない発表が多いので、私にとって実質木曜午前までが学会である。
 わたしの発表は火曜の朝九時半で、前日のパネルでやりきれなかった二人をくりこしたワクであったため、人がくるか心配だったがまあ人はきた。学会でもっとも緊張するのは準備してきたパワーポイントがちゃんと作動するかとかなのだが、もちろんちゃんと作動せず、人にみせる画面はみえたが、手元のパソコンはまっくらであった。後ろみながらやったから別にいいけど。

 話かわって、今回、学会主催者はシングルルームがないので、相部屋をお願いすると繰り返しかいていたので、主催者の苦労をしる私は相部屋で申し込んだ。でふたをあけてみたら、20代の日本の学生四人のうち二人までは、シングルを申請してそれが通っていたのである(彼らは学生とはいえ大学とか国のお金で来ている)。だったらわたしもシングルとったよ。かわいそうなわたくしはおおはずれのルームメートをひいて、どうにもがまんができず、二日目には、外のホテルに自腹で部屋をかり直し、そこから会場にかよったのである。

 まったく不条理である。

 今回、I先生に聞いたことだが、外務省に入省したばかりの若きエリートたちが、海外での研修期間の終わりにフランスなら首都のパリに集まって試験をうけるが、その時、彼らは卵とはいえ外交官として優遇されているため、飛行機を使っても、列車の一等をつかってもいいのに、ほとんどの研修生は「国のお金を遣ってはならない」と列車の一般席でくるそうである(その後三四年たって彼らが省の雰囲気にそまってどうなるのか私は知らない)。人のお金を遣う場合にはやはりそれ相応の遠慮というものがある方が美しいであろう。

 このルームメイトとの決裂については、世界中の誰がみても(相手の一人を除く)、行列のできる法律事務所のあの仲の悪い四人の弁護士ですら、私がかわいそうであり、相手に問題がありと認めるであろう。
 ダンナとくればこんな苦労はしなくてすんだのだが、わが愛鳥の面倒をみる人が必要なので、二人で家を空けるわけにはいかない。ああ遠慮せずに最初からシングル申請すればよかった。

水曜日〜木曜日

 学会が開催されたホテル飯は、朝昼晩バイキングなのだが、この内容が毎日同じ。みなごはんがまずいとげんなりしている。わたしはこのホテルにはすでに入金しているのでここで朝昼晩食べる権利はあるのだが、さすがにあきたので、朝食だけは新しくうつったホテルでとる。こっちのホテルは会場のホテルよりはアットホームなホテルで、マネジャー自ら朝食を準備しコーヒーをいれてくれる。
 こっちにはいろいろな都合で会場に部屋のとれなかった私のような人が何人かいるだけで、四百人も人がいないので、静かである。部屋はライン川のフェリーつきばのすぐ近くで、ライン川をみながらスーパーで0.6ユーロでかったドイツビールをあおりながら、帰国の日を数え続けた。
 しかし、このような不毛な日々をなごませてくれる一服の清涼剤がなかったわけではない。このホテル、朝ご飯を食べていると、すずめが窓からはいってきて、床のパンくずをつつくのである。最初絨毯の上で雀が歩いているのを見て、幻覚かと思ったが、本物であった。私が周りの目を盗んですずめにごはんをあげまくったことは言うまでもない。ラインの雀は大胆である。木曜日には学会の唯一の楽しみ遠足が予定されていた。しかし、その内容を聞いてがっかり。200キロ先までバスにのってそこにある博物館でチベット展をみにいくのだという。しかも聞けばこの展覧会、チベット本土から来ているというから、西蔵博物館に常設展示してあるもんとほぼ一所であろう。体調も悪化の一途で、バスに何時間ものる気もおきないので、遠足をパス。

金曜日

 いい加減学会につかれはてた有志の日本人先生グループでライン川くだりをすることにする(てか、学会当局も遠足するならライン川下りにしてほしい。チベットに無理にからませたいなら、ローレライの岩の上にタルチョーでもはっときゃいいだろ)。
われわれは計画性がないので、出発するのは午後一時五十五分になり、遊覧船に乗り込んでリンツいってすぐまた船にのって帰るという予定。
 船に乗り込むと「やっぱビールでしょう」とドイツビールをたのむ。いわゆるローレライの岩たらなんたらとかあるのはこれよりもっと南なのだが、ラインをくだったという事実ほしさの乗船である。
 船にはドイツの年のいったドイツ人夫婦の観光客が多く、我々日本人一行はうきまくる。てか、このメンバーではライン川浮かんでも隅田川の遊覧船みたいだし、リンツのマルクトでおちゃしても、日本のドトールにいるような気持ちになる。なぜかというと話題が日本の学会事情とか互いの近況ばかりで、ぜんぜん観光ムードがないからである。

 リンツで少しだけ街をみてまわってすぐに返りの遊覧船にのる。「いきがドイツビールだったから、返りはドイツワインでしょう」というわけのわからん理屈によりドイツワインを飲む。そしたら全員ただのよっぱらいになって、ケーニスウインターについて、「さあ降りましょう」と、のたのた甲板からおりてきたら、もう船は桟橋をはなれており、船は戻せない、という。

 仕方ないので、二つ先の停泊地にまで乗り続け公共交通機関にのりかえることにする。静かな観光客のおおい中で、わる目立ちの極みである。二つ先の停泊地で船をおりてタクシーにのって帰る。そしたら学会は総会をやっていて、ここ数年なくなった学者への追悼とか、ジャーナルの創刊とか、次のプレジデントを誰にするかとかやっていた。そのあと同じメンバーでイタリア料理をたべにいく。ああ懐石料理かすしが食べたい。もう洋食ヤダ。

土曜日

 待ちに待った帰国日である。睡眠リズムはもう日本にもドイツにもあっておらず、体調はサイアク、食欲もなく、これ以上の滞在は命にかかわるのでとてもうれしい。ケルンからアムステルダムを経由して日本に帰る。アムステルダムでユーロを日本円に換金し、財布の中身を日本円に戻し、時計を日本時間にあわせたものに変えると、気持ちもずいぶん明るくなった。ちなみに、ドイツ時間にあわせるためにもってきた千円のキティちゃん時計は昨日、ライン川のどこかに落としてきた。わたしの外国嫌いが象徴的に現れている。これからはじまるつらいフライトも行きとは違い、その終点に日本が、そして愛鳥がいるとおもうとつらさは半減する。

 ああやっと帰れる。仕事とはいえつらい。もう外国はいかない。