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供養のおり私の前後に並んでいた人間の顔ぶれがやたら変わると思っていたが、あのうちの誰かがスリだったのだ。私だってチベット人全員が善人であるとはおもってはいない。スリだって、強盗だって、詐欺師だって、人殺しだっているだろう。しかし、まさか聖なるムンラムの日の聖なるシャカ像の前で八斎戒の一つである偸盗戒をおかすヤツがいようとは思わなかった。油断した。
←K嬢と湯沸器
幸いなことに、最も重要な金品は懐中にあり、すられた財布は五百元しか入っていなかったが、財布にはVISACARDが入っていた。カードがあちこちで使われて日本に戻ってから東南アジアや中国の内地で使われたと称してウン百万の支払い請求がくるのでは〜、とサイアクのシュミレーションが頭の中でぐるぐるしはじめた。
とにかく、ホテルに帰って対策をねろう。あせった私は近道をしようと旧市街に入った。しかし、そこではたと気が付いた。わたしはついてから寝込んでばかりいてホテルからトゥルナンまでの道筋を覚えていなかったのだ。夜の旧市街は真っ暗で窓から落ちるあかりをたよりに道を歩くがさっぱり方向がつかめない。でこぼこの石畳は中世のままで歩きにくく、何より暗闇から誰かがでてきそうでコワイ。財布をすられた怒りのオーラで道を照らして歩いたからなんとかついたが、正気だったらものすごく怖かったであろう。
ホテルに戻るとK嬢はまだ帰っていない。門番に言付けをたのみ、わたしはインターネットバーに走った。ここのにいちゃんは猊下と私のツーショット写真を見せたら大変に歓待してくれた。こんな状況下だからおそらくただでインターネットを使わしてくれるだろう(だってオケラだもん)。案の定わたしが半泣きで駆け込むとインターネットただで使わせてくれたので、わたしは日本に向けてカードの支払い停止メールを打つことができた。にいちゃんはそのあと、トゥルナン寺にわたしを連れて行き英語の分かる坊さんに「財布だけでも見つかったらインターネット屋に届けてくれ」と話をつけてくれた。ホテルにもどると帰りが遅い私を心配したK嬢が迎えに出てきた。財布をすられたことを話すと、・もした方が良いというので、急遽借金をして日本に国際・をかける。・にでた夫はうちつづく私の不幸にあきれはてただ相づちを打つのみ。外では私をあざわらうがごとくムンラムを祝う花火が打ち上げられていた。
ちなみにこの日はわたしくの主著が出版社からあがってきた日であり、私にとって本来はとてもいい日になるはずの日であった。それがスリのせいで台無しである。ワタクシの怒りはとどまるところを知らず、その晩は気分転換のため日本から持ってきたモーニング娘のベストと宇多田ヒカルのライブをMDできいたが一向に腹の虫は収まらず、一晩天井を血走った目でにらみ続けた。失った金銭よりもチベット人に対する信頼の気持ちを失った(失う方が悪いのだが)ことが何より腹立たしかった。
翌朝、二時間ほどしか寝ていないので、頭痛がぐわんぐわんしてサイコーのおめざめ。土曜日だから銀行も開いてない。交番も開いてない。ガイドのおねえちゃんにおそるおそる「ラサでVisa
Cardを使える場所はあるか?」と聞いてみたら、中国銀行でお金がおろせるが、昨日は夜だし今日は土曜だからまず大丈夫とのこと。
K嬢も「先生、ここは東南アジアじゃないんですから。チベットですよ。カードきくとこなんかありませんよ」と慰めてくれる。そうかここはチベット。スリはひょっとしたらあのカードの意味も知らなかったかもしれない。
昨日インターネットバーで騒いだもんだから、ラサの日本人旅行者にすっかり知れ渡ってしまいいい恥である。学生が二人で「昨日は大変だったそうですね。ムンラムだからデモ起きるかと思っていたけど起きませんでしたね〜」等と社交辞令で話しかけてきても、「人の懐ねらっているような連中に、独立なんかできるかあっ」と大人げない返事をわめき返す私。K嬢が日本人学生に対して「先生、カムパが視界に入るたびに、『あのくされカンパが』とか毒づくんで聞こえやしないかとひやひやするんですう。彼ら山刀持ってますしねえ」とか訴えている。聞こえとるわ。
そう、この日を境に脆弱な精神と肉体を特徴とするオリエンタリスト・イシハマは、完璧に幻想モードを脱却し侮蔑モードにはまっていくのであった。なんて陳腐な変節なんでしょ。
たとえば、旧市街の町並みをスライドに収めようと一歩踏み込んでも、昨日までは「中世そのままの町並み。なんてエキゾチーック」と感動していたのが、今日はそのあまりの臭さ汚さに
私「おえっ」
K嬢「先生路地入らないと写真とれませんよ」
私「おえええええ」(←すいません)
っとくるのだ。
また、体調の不良は判断力の著しい低下をもたらし、とくに日本語以外の言語がティンプトン症候群(直訳:聞き取れないわ)となり、さらに被写体が日に日におかしなものになっていった。ある日のこと、
K嬢「先生、なに撮ってんですか?」
私「何って、やかん沸かし器」
説明しよう。この湯沸器は一見パラボナアンテナのようなアルミの立派な構造物の真ん中に、すやかんを置く台があり、ここにやかんを置くと、太陽熱で湯が沸くという、まったくもってアナログな地球にやさしい商品なのだ!チベットのキョーレツな紫外線の有効な利用法だねっ?
また、ある日バンマリのケサルラカンで朽ち果てた碑文を観察していた時のこと。
私「ううむ。裏もみないとな。この時代漢文だけの碑文はめったにない。最低でもチベット文があるはず」
K嬢「でも、先生、現地のガキが上から唾落とし攻撃をしていますよ。側によったらかかります」
私「では、わたしがあのガキの注意をひきつけよう」
K嬢「お願いします」
私「ほーら、何してんの〜?唾なんかはいちゃだめじゃない?」
ガキ、にこにこ笑いながら手に握った砂をぶちかけてくる。
私「ほーら、おいたしないの? 砂かけ小僧が」
ガキ、意に介さずわたしの顔面にさらに砂利をぶつける。
私「この○×▽キ〜っ。×っ×す!」(←大変汚い言葉で失礼致しました)
こうしてさらに機嫌の悪くなるわたくしを前に困り果てたK嬢は
K嬢「先生、このネパールカレー美味しいですよ。あっ」
私「何よ。髪の毛でも入ってた?」
K嬢「いえ、ゴキブリの触覚でした。うふっ」等と明るく振る舞っているのが痛々しい。
このころになると、ワタクシはもうサンゲギャムツォとのシンクロも、資料用の写真撮影も、本の発送もどーでもよくなっていた。カードの無事停止を確認してより多少は平常心が戻ったが、わたしは「チベットが私を全身で拒否している」という思考に捕らわれつつ、ラサは不衛生な糞尿の山に(事実旧市街はそこいらに糞尿が)、通りすがりのチベット人はあさましい泥棒にしか見えなくなった。
思えば、私は生粋の文献学者。ダライラマ五世やサンゲギャムツォの著作を読んでこの時代のダライラマのすごさについてはチベット人よりも熟知している。私にとってのチベットは17世紀の黄金時代でとまっており、目の前にある中国に支配された現実のチベットは本質的でない影、二義的な意味しか持ち得ないものであった。しかし、今回の旅でチベットの現実が否応なしに感じられてきた。ポタラ宮にはもうダライラマ五世もサンゲギャムツォもいないのだ(そりゃそーだ。三百年前に死んどるわ)。それどころか、正当な主であるダライラマ14世の姿すらない。現実にはもうこの宮殿は宮殿ではなく、ただの観光地なのだ。思えば、道ゆく僧形の大半は、修行僧ではなく観光地の切符もぎりである。ここにはもう何もない。これが現実なのだ。それ以上でも以下でもない。これが現実なのだ。
しかし、ようく考えてみれば、私が辿った期待・憧憬から幻滅へのこのような道行きは、サイードが『オリエンタリズム』で批判した東洋学者のあり方そのままである。オリエンタリズムとは、西洋の東洋学者(文学者でも一般人でも可)が、オリエントに対して、まだ見ぬうちは手前勝手な麗しい幻想を押しつけて持ち上げるが、一端その現実に触れた後は軽蔑・侮蔑・支配の対象へとおとしめる(歴史的には植民地支配の対象とした)という現象を指す。それはあたかも、男が女に対して自分の理想とか幻想を重ねて一方的にのぼせあがり、一端その女性に現実的な側面とか受け入れがたい自我を見出した後、これまた一方的にその女性を侮蔑の対象にするかのようなものでありオリエントを舞台に官能小説を書いていたフローベールが、実際にエジプトにいってその不潔さ野蛮さを目の当たりにしてから、現実のエジプトをこきおろした『エジプト日記』を書いたのなんかもその典型だ。
つまり、以上の旅行記は、私がいかに典型的なオリエンタリストであったのかを自ら暴露した旅行記だったということになろう。フィールドの人はもっとましなものの考え方をするのだろうが、私は文献学者。この文章を読んでいる文献学者の方、轍を踏まないように気を付けてください。
このような状況ではあったが、最終的には、本を買い漁って発送をし、ポタラ宮関係の研究書を捜し、現場に何度か足を運び文献と現実のすりあわせをするといった当初予定していた仕事を最低限こなしたのだから、わたしも立派なものよ(自画自賛)。
成都につくと、仕事を休んでこの地に留学しているA嬢(チベ関係の古いお知り合い)がわざわざ出迎えにきてくれていた。彼女の寮にお邪魔すると、こちらは仕事をやめて留学しているひもなしバンジーBさんがおり、彼らと中国の民族問題などについて雑談する。空気の密度が濃くなったため私の判断能力は著しく回復を見せ始め、べらべら聞かれもしないことをしゃべる。一番年寄りが私なのになぜか晩ご飯をおごってもらった。やっと少し幸せな気持ちになった(←せこい)。
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