今年初め、5/22-5/23にパリで「乾隆帝とチベット仏教」(Qianlong's Tomb The Emperor and Tibetan Buddhism. Shaping a Virutal Supta)というタイトルで学会が行われるという通知がきた。主宰はProject ANR SINETOMB、会場はコレージュド・フランス(College de France)。
パリまでは時差が大きいので普段ならパスするところだが、去年『清朝とチベット仏教 菩薩王となった乾隆帝』を出したばかりなので、このテーマで会が行われるというのならアナウンスにいかねば、学者がすたる。
【ブログの方にも書きました。エントリーは前篇(暗黒面)と後篇(カルチェラタンを歩く)があります。】
到着日
機上時間が長くつらいので、エールフランスの直行便を用いる。しかし、エコノミーなので狭い。日本人の暇な観光客で満員で、誰かがトイレにたつたびに起こされるため、私のような神経質な人間が睡眠をとるのは不可能。
シャルル・ドゴール空港につくと、パリは雨で肌寒かった。会の主催者であるフランソワ・ワンが迎えにきてくれていた。初対面の挨拶をすませ「私が一番心配しているのは言語です。学生さんでも結構ですので、フランス語から英語なりの通訳をつけていただけるんですか」と聞くと、フランソワ曰く「みなパワーポイントを使うので言葉は分からなくても、内容は分かるはずよ」。なんだよそれ。いみふ。
彼女は「別のターミナルで中国からの参加者をまつので、このままついてきて夕食を一緒にするか」という。これ以上空港にいるのはうんざりなので断って、タクシーにのって直接ホテルに向かう。タクシーの中では爆睡する。ホテル前で車をおりると、路肩を流れる雨水に足をつっこんでスカートの裾がびちゃびちゃにぬれる。幸先がいいわ。
しかも、ホテルのフロントのおねえちゃん、タクシーの運ちゃんに料金を請求されたと勘違いして、タクシーの運ちゃんと言い争いだし(おそらくフランソワは中国からの客を同じ運転手に市内まで運ばせるため彼に空港にもどるよう指示しており、運転手は戻るのが面倒くさいのでホテルにいる関係者にお金をもらおうとしていたのであろう。連絡が悪い)、しかも、フロントの女性は私の予約がないというので、あるはずだとねばりまくりやっとチェックインに成功。
そして、昨日から使い出したiPhoneをホテルの提供するFree Wifiに接続するまでものすごい神経をつかう。そもそもiPHoneでの文字の打ち込み方もしらないのにどないせちゅんだ。その晩はとにもかくにも睡眠薬で爆睡し、翌日はiPHoneのあらーむで目覚める(すごいだろ。自分で設定したんだぞ)。
会初日
コレージュ・ド・フランスは大学街カルチェ・ラタンの中にある。 教育施設の中心をなすパリ大学は、1275年に神学者ソルボンヌによって建てられた小さな神学校を起源としている。その後、日大のように巨大化を続け現在13校からなる。伝統的な教育を行っているのはその13校のうち四つくらいらしい。
会場となる建物はパンテオンを囲む広場に面した施設であり、パンテオンはカルチェ・ラタンの中心でもあり、パリの中心でもある。パンテオンはもともとパリの守護聖人を祀る聖ジュヌビエーブ教会の付属施設であったが、フランス革命後には、キリスト教とは関係ない偉人の墓となった。
パンテオンの向かって右にはここに埋葬されている偉人のうちの一人、教育哲学者ルソー(1712-1778)の像がある。向かって左には有名なソルボンヌ大学所属のジュヌビエーブ図書館が見える(ルソー、ソルボンヌからは批判されてたけどね 笑)。この図書館は19世紀の建築家アンリ・ラブルスト(Henri Labrouste)の傑作として知られる。
学会はフランソワの開会宣言ではじまるが、すべてフランス語なので何一つききとれない。これはひどい。中国からは、お偉いさんと海外留学歴のある若手がきているので、漢語しか分からないお偉いさんはこれらの学生たちに通訳してもらえばいいが、私はどないせちゅんじゃ。まあ、仏教と歴史のレベルは日本の学会に比べてたかがしれてるから発表内容はいいけどね。でも質問と議論がききとれない。
EU圏の別の国からきた研究者が何度も抗議してくれて、フランソワのフランス語はだんだん英語がまじるようになってはいった(彼女は英語が苦手らしい)。しかし、だいたいにおいてゲストに対する配慮はなかった。
学会の聴衆はギメ美術館(パリ屈指の東洋美術館)のヒマラヤ部門のキュレーターや、セナレスの先生方、また、ブータンの歴史を研究されている今枝由朗先生など、一言で言えば濃い。
まず最初に乾隆帝の墓のプロジェクトの総括が行われた。会の主宰者でもあるフランソワは、3D部隊と中国のおえらいさんたちと協力し、4年にわたり乾隆帝の墓を調査した。乾隆帝の墓は全面にマントラがほりこまれているが、この3D部隊がこれら全壁面のマントラを全アングルから撮影・3D化して、それをフランソワが読み取ってどの壁面にどのマントラがあるかなどの結果を報告していた。彼女の結論は、マントラの配置から、乾隆帝の墓はバーチャルな仏塔であるというものであった。理系と文系のすばらしいコラボである。余談だけど、3D部隊の助手のジュリちゃんはちょっとアラブの入った風貌で、ハードコアなファッションが目を引いた。
某老教授(この人もヨーロッパ人)と仲良くなり会について語り合ったが、彼が言うにはフランス人の主催する会議はだいたいにおいてこんな感じで、ようは時間にメリハリがなく、コーヒータイムや夕食昼食の時間を気分でのばし、それで時間がたりなくなっても、発表者の発言時間をコントロールすらしない。さらに参加者に対する配慮にも欠けていて、質問の際にも発表の内容とまったく関係ないとんでもない話をはじめ、ようは「自分が知っていること」を言いたがる。夕食や昼食の時も本来は主催者がゲストを会話にいれるよう気配りすべきなのに、仲間内ばかりと話しをしている。
クソミソである。
しかし、彼はもう一人の主催者についてはオープンハートでいい人だと賞賛を惜しまなかった。それについては私もそう思った。なので、すべてのフランス人が多国籍ゲストをガン無視しているわけでないことを一応お断りしておく。
そして、昼食タイム。某フランス人研究者が、中国本土の研究者に「十月の北京の学会に来ますか」と聞かれて「チベット人がこんなに焼身自殺しているのにのんびり学会なんていってられるわけないでしょ」とストレートな発言。
そして、私に「私の古いメアドは中国政府に攻撃されて使えなくなったのでこれが新しいメアドよ」と新しいメアドをいただく。こうでなくては面白くない。 聞けば、この同じ、コレージュ・ド・フランスで、EPHE (Ecole Pratique Hutse Etudes)主催で5/14-15日にかけて「チベットの焼身自殺を考える会議」が行われた。くわしくはここにpdfがあります。
ここでは、チベットに限らず、ベトナム、イスラームなどで行われた過去の焼身自殺についてのブリーフィングがあったんだそうな。でこの会議にでている人の多くはこの焼身自殺の会議にもでているため、雨だし、空気、寒い寒い。
ちなみに、焼身自殺会議で発表された内容は↓で自由に閲覧でき、将来本にもなるそう。かたや中国人とのプロジェクトをやりつつ、かたや焼身自殺会議。自由の国ですなあ。そういうところはいいと思う。
パリの町は見た目確かにしゃれていて粋だ。しかし私はゲルマン押しなのでこのラテンの軽い優男なかんじにはどうもノれない。すべての食事でわたしはエスプレッソではなく、アールグレーを所望したし(ないし笑)。
で、ひたすらポーランド人の研究者とパリを語り合う。
ポーランド人「われわれはカトリック教徒だから、こういう美しい教会をみると入ってみたくなるのよね。でもどこに入ってもカラッポで何もないの。パリは美しいけど、空虚だわ。」
私「フランスは長く教会の力が強かったから、知識人は宗教の権威を排除することに全力を傾注したんだよ。でひたすら神様のとく人倫を否定して個人の自由を追求した結果、この芸術と美食の都パリができあがった。でも彼らが好き勝手して幸せになったかは疑問だね。これだし」 という私の視線の先には、透明な公衆電話ボックスの中で寝る一人の浮浪者がいた。彼はひげ面でどうみても若い男だが、大きく開いたその胸元はシリコンでふくれていた。ゲイである。パリではこういうふうに何でもやりたいようにできるが、あまり幸せそうにはみえない。治安のよいカルチェラタン(学生街)でこれだから、郊外がどのような惨状か推して知るべし。
そういえばサルトルって、アルジェリア独立戦争とかに味方しているうちはよかったけど、次はソ連を評価し、彼らがプラハの春を粉砕すると今度は毛沢東主義を礼賛し、戦争中は捕虜になると偽の診断書で解放されていた。日本人はサルトルもサルトルを批判した構造主義者たちも大好きだけど、私はもうこの軸のない生きたかを見るだけでううんざりする。真理を壊しつづける無意味さと自堕落さについていけん(そういうのが好きな人は別に反対しないけど。同意や助けは求めないでね。周りは何もできないから)。
パリの道徳観のなさを示す例はかずあるが、先程の老教授の例についてみてみみよう。彼は飛行機でパリについて電車に乗り換えようとした際、改札口の機械で、切符をもたずに改札を突破した二人組の若い男に後ろから突き飛ばされて転倒し、足を怪我し、会期中ずっと足を引きずっていた。たかだかちょっとの切符代でお年寄りをどつきとばすのが、パリの現実である。
夜は、カルチェラタン北にある、中国楽園という中華料理屋で食事。ここは百年前からパリのシノロジストの集まる場であったという。
会二日目
午前冒頭が私の発表。読み原稿はパソコンにいれているため、前の日に聞いた発表の中で関連する話題があった場合、それについて言及する台詞を入れたりと前の晩まで原稿はいじった。
ちなみに、これは私に限ったことではなく、前の晩に某中国からの研究者がチャンキャロルペードルジェの転生譜について発表することを知ったので、夕食の席で、「私がこないだだした本をみた? 最終章はチャンキャと乾隆帝とパンチェンラマ三世の転生譜をあつかってるよ」といったら、一夜あけたら彼はテーマを変えていた(笑)。聞けば、前の晩は三時間しか寝なかったという。ごめんね。でもあなたがどんな発表しても英語でつっこみいれる気力はないから。
発表時間がきて、なかなか部屋に人が戻らないので、私が立って待っていると、私のセクションの司会をしてくれるスコルプスキー教授が、 「おちついてそこの椅子に座れ。そしてこれがマイクだ。大丈夫だな」と聞くので、
「いや座ってマイク握るくらいはできるけど、言語問題は解決していないわけで」というと、
教授 「それはもう間に合わない(its too late)」(爆笑)。
質問コーナーで案の定質問の英語がよく聞き取れず、私は適当に内容にあたりをつけて自分の知っていることを長々と話はじめた(オノレはフランス人か 笑)。すると、見かねた今枝先生が通訳してくださった。ありがとう、先生(ひどい笑)。
というわけで、無事発表も終了し、その晩はスコルプスキー教授と一緒にホテルの近くのにステキなレストランで食事。ホテルのフロントの女性に教わった店で、おいしかったのだが、私が忘れ物をとりに店に戻ると、店のギャルソンが「先ほどの紳士は20ユーロ少なくおいていった」というので、何も疑いを持たず20ユーロを払って、その話を笑いながら教授にしたら、「騙されたんだよ。私はちゃんと払った」といい、怒り狂って取り戻しにいってくれた。
よく考えて見ればわたしが20ユーロ払ったことは彼が間違えたことを認めることでもあり、本当に失礼なことをしてしまった。20ユーロはどーでもいいが、彼に不愉快な思いをさせたことは申し訳なかった。日本人のこの自責感はフランス人には理解不可能だろう。それにしてもむかつくのはこのレストランである。アジア系だと思ってなめやがって。店の名前をさらすForge Restaurant(はいここがそのレストランのサイトです。この綴りでパリで検索するとマップもでます。)ので、みな注意してね!。 ttp://restaurant-la-forge-paris5.com/
帰国日
荷物ひきずって駅まで歩くのがだるいこと、あと、改札口で二人組の男に蹴り倒されるのはごめんなので、タクシーで行くことにする。運転手はポルポトの虐殺を逃れて25年前にパリに移住したカンボジア人。仲良くなるが、タクシーが渋滞にまきこまれ、カルチェラタンから空港までなんと一時間半もかかり、最後は二人とも超無口に。タクシー内にひびきわたるのはわたしたちの舌打ちのみ。 空港は広くまったく調べてこなかったので自分がどこから出発するかも分からず、さんざん迷う。やっと搭乗口についた時には、疲れ果てていて、何をする気力もなし。
シャルルドゴール空港はタイヘンにこみあっており、飛行機はさんざん待たされ、あげくこの飛行場で待たされた遅れのまま羽田についた。 以上である。