犬も合掌・ツォンカパ聖跡ツァー (2006)
※写真はクリックすると大きくなります(犬以外)
今回のチベット行は、チベット仏教の最大宗派であるゲルク派の開祖、ツォンカパの事績をたどる旅であった。
チベットの大寺の大半はゲルク派であるため(ダライラマもむろんこの宗派に属す)、その仏殿の中央に必ずみあげるような巨大なツォンカパとその二大弟子の像が祀られ、集会殿の本尊には弥勒仏が鎮座する(ゲルク派で重視する『現観荘厳論』は弥勒が説いたから)。
ツォンカパはもちろん偉大な上にも偉大なのであるが、一般的な旅行者には「シャングリラ」とか「天国に一番近い湖」とかの方がうけるので、「こんなオタクなテーマで人が集まることはまずない」とたかをくくっていた。
それなのに、な、な、なんとこのツァー成立してしまったのである(無責任)。
世の中って広いね。
第一日目(チベットについた時点から日付を数えてます)
チベット入りして初日に訪れたのはオン渓谷にあるタシドカ寺である。伝記によるとここでツォンカパはゲンドゥンドゥプ(後のダライラマ一世)と会合し、有名な施主タクパゲルツェンの供養を受けている。
われわれがタシドカ寺を訪れた時、折しも僧侶たちは中庭に集まって『八千頌般若経』の読誦中であった。わたしはその中央にいるケンポ(僧院長)につつと歩み寄り、ツォンカパの伝記ならびに絵伝のコピーをお見せし、この地がツォンカパゆかりのタシドカ寺であることを確認。われわれは寺を一周するコルラ(環状巡礼路)をたどりながら、この寺のみどころまわる。まず、ツォンカパが一日七回髪を剃ったという場所、仏塔、そして瞑想窟を拝観する。
この瞑想窟は現在も僧侶のツァム(お籠もり修行)に使われており、窟は建物で覆われている。窟の入り口にはガラスばりのドアが付けられており、われわれがガラス越しに窟内(ツォンカパの)を拝んでいると、ラマはドアをあけて中をみせてくれた。聞けば白人はたまにくるものの、日本人がここにくるのははじめてとのことなので、寺側のご厚意であったらしい。われわれは窟内に祀られたツォンカパの像に頭をつけて礼拝し、合掌する。
再び寺のコルラにもどりドルマラカン(ターラー堂)をめぐり、集会殿を見学する。すると、なんか猛烈な寒気がしてきて、吐き気がする。
きたきたきたきたきた〜、高山病である。
というわけで、みなさんが中庭でお坊さんのディベートを見たり、お茶をごちそうになったりしている間、わたくしはペットボトル片手に僧院の庭でうっぷ、○ーの繰り返し。聖地まできて何しとんのじゃ。帰り際心配したタシドカの坊さんに高山病のチベット薬を持たされた。
あきれはてた同行のS氏に「聖地に○ロはくとは、イシハマ三大事績の一つだな」と言われる。
このあとツェタンに戻り、パグモドゥパ王朝の都のあとちネウドンツェにいく。ツォンカパが具足戒を受けたペンツァン寺を探そうかと思ったが体力の限界にて断念。誰か見つけた方、写真ください。
第二日目
ウルカ渓谷のツォンカパ聖跡に向かう。36才になったツォンカパはすでに学僧として名を轟かせており、このまま教授の道に入るか、それともさらに瞑想修行を続けるかで迷ったあげく、守護尊である文殊の言葉により、瞑想修行を選び、ここウルカに八人の弟子とともに隠棲した。
ツォンカパはこの地で、哲学的な最終理解と修行体験を完成させ、その後の 後半生は広大行に捧げる。
ウルカ渓谷は途中にある水力発電所をみなかったことにすれば、非常に幽邃で聖地のムード満点である。同行のオタクS氏によると、小倉の大谷池にある拝み屋の集まる土地にも似ているという。実はこの谷をさらに二泊三日トレッキングしながら進むと、かの有名なラモイラツォ(直訳すると女神の湖。ダライラマの運命をうつす湖)につく。ここはラモイラツォの巡礼道にもあたるのだ。
ウルカゾン(かつてのウルカの行政的中心)のもっとも奥まったところに、次の目的地ジンチ寺があった。この寺はもともとカーダム派の寺であり、弥勒像で有名であった。しかし、ツォンカパがここを訪れた時に寺は荒れ果て、弥勒像はひっくりかえって鳥の糞で汚れていたという。ツォンカパはこの弥勒像をきれいに化粧直しし、寺を再建し、その落慶式には、新しく塗り直した仏画や仏像にお御霊がはいっていくのが見えたという。
ツォンカパの四大事績のうちの一つ「ウルカの弥勒像再興」である。
寺につくと、土をせおった人たちが寺の中にはいっていく。みると寺入り口の四天王はまだ彩色前の線描であり、寺内にまつられている仏も、金箔を貼る前の土のままの姿である。寺はまさに文革の破壊から復興しつつあった。寺の管理をする方の案内で古い弥勒像をおさめた新造の弥勒像をみる。ここで働いている人々は、この寺を復興することによって、ツォンカパの事績を追体験しているのだ。伝説は現実を動かし、あらたなる伝説を生み出す。ええのう。
役僧の方に、本堂に祀られるツォンカパの指のあとの残る石、足跡(シャプジェー)のある岩などを案内していただく。そして、ツォンカパ伝にみられるツォンカパの他の修行場について伺うと、「ガル窟はここから一時間の山の上、ラディンはあの聖山オデグンゲルの山の中腹、サムテンリンは行きに通ってきた温泉の近く」と、みなごっつい遠い。速攻で訪問を諦める。
そしたら「近くにこの寺の本尊の弥勒像が出現した洞窟がありますよ」と勧められたので、行ってみることとする。
車で数分で崖の麓につくと、その崖の中間に弥勒窟はあった。この窟のある岩山自体が八つの吉祥なるシンボル(法輪・如意宝珠・無限の紐・白法螺貝・傘盖・魚・蓮の花・水瓶)が自然と浮き出ているため、全体が聖山として崇められ、コルラ道がついている。
こんなきりたった崖まさか上るんじゃないだろうね、と思い「行者さんがいらっしゃるので拝観はむりですね」とガイドさんに言うと、ガイドさんとジンチ寺の役僧の方は、意に介さず「大丈夫です、行きましょう」という。ええええ、マジでここ上るわけ?
途中の難所はガイドさんや運転手さんにひっぱりあげてもらいながら、ヒーヒーのぼる。
何がかなしゅうて、四千Mの高地で平地でもやらないロッククライミングやるんじゃ。そのうえ、私の靴は平地仕様のハッシュパピーである。私に限らず同行のお客さんだって、一歩間違ったら大惨事だよ。「チベット旅行中、邦人○名転落死。秘境ツァーの落とし穴」とかいう新聞見出しが頭にちらつく。仏様のご加護か奇跡的に誰も死なずに洞窟にたどりつく。
洞窟内には弥勒像が出現した穴や、この穴をでたくないと像が踏ん張った足跡、弥勒像を乳で供養していた山羊の綱跡などが岩にやきついている。瞑想窟の中にはアムドのレプコン寺からきたゲンドゥンチュンペーというお坊さんが修行中で、これから二ヶ月はこの窟にとどまって瞑想するとのことである。このお坊さんからみなで祝福をうける。
もう一つの瞑想窟をまわり、少し傾斜のゆるい別の斜面から三点確保ならぬ五点確保(両手両足ならびに尻を岩肌につけてずりおちる)しながら下山。
ふもとの美しい小川のもとで昼食となる。チベットで野外で食事をすると、どこからともなく子供達があつまってきて、ものほしげに食事をのぞきこんで、高山病でもともとあまりない食欲が、いっそう減退するものだが(ちなみに、そのような場合、子供にはお金をあげるより、手を付けていないお弁当やお菓子などをあげる方がぎすぎすしなくていい)、さすがにここ奥地のウルカでは誰も来ない。役僧の方によれば、ここまでした日本人はわたしたちがはじめてだという。
午後は同じくウルカ渓谷内にあるチュールン寺に向かう。チュールン寺はツォンカパが激しいサクチャン(徳を積んで罪を清める)修行(具体的にはマンダラや型抜き仏を何百回となく作り、何万回もの五体投地を繰り返す修行)を行った場所として知られる。
寺はウルカゾンをみおろす高い山の中腹のすごいとこにある。標高は四千三百くらい。往き道にバスが横転しなかったのは仏様のご加護と運転手さまの腕のおかげである。
寺につくと、70過ぎの見るからに人格者の老僧が現れ、われわれの手をひいて寺宝の一つ一つを案内してくれた。もちろんこの寺も文革によって一度破壊されているため、仏像や仏殿は再建であるが、ツォンカパの聖遺物は昔のままであった。ツォンカパがマンダラをつくった場所には、ツォンカパの五体投地によってすりへった石や足跡(シャプジェー)などが残されており、この老僧によると、文革の際には彼が体をはってこの聖遺物を土の下に隠してまもりぬいたのだという。
そして、瞑想窟ターイムである。
ガイドさんによると、この寺の背後の山にはツォンカパとその八人の弟子の瞑想窟があるという。先ほどの恐怖の弥勒洞の件もあるのでガイドさんの「近いですよ。五〜六分ですよ」という言葉に疑念をいだきつつも、とりあえずついていく。すると、確かにさっきの弥勒洞よりは歩きやすい道のはてに瞑想窟があった。
ツォンカパの瞑想窟にはやはりツォンカパの像がまつられており、かろうじて人一人がまわりを一周する道がついていた。じつはこの寺に来る前に、ツェタンに行きたいというアムド僧を一人ヒッチハイクで拾っていたのだが、この僧はわれわれについて拝観にはいってきて、カンゲキのあまり五体投地して、ガンデンラギャマを唱えはじめた。そしたら、このツァーオタクなのでみなで唱和である。窟内に神聖なムードがただよう。
ガイドさんによると、この窟を擁する岩山の上にはツォンカパが瞑想した岩と、その合間にねころんだ岩があるという。文献の裏付けはないがここまできたのだからと、ふたたび、ヒーヒーいいながら岩山をのぼり、頂上までいく。確かにカターが捧げられた岩の座と寝床のような岩がある。
ヒッチハイク僧はツォンカパのいわくらの前でかんきわまって五体投地をはじめた。この山頂のいわくらにすわって前方をみると、ちょうど山々を越えた向こうにガンデン寺がある。ツォンカパの最晩年に建立されたゲルク派の本山である。
山をおりると、先ほどの高僧がわれわれのために護り紐(スンドゥー)を用意してまっていてくれた。
いつのまにかわれわれの扱いが、観光客から巡礼になっている・・・
第四日目
午前中はサムエ寺にいく。サムエ寺につくと、添乗の方が全員にイヤホン「聴さん」を配る。私が「おお、チベット観光もついにここまで来たか。必要な箇所にいってこのイヤホンにスイッチをいれると、説明がながれるのだな」というと「違います。先生はこちらを」と渡されたのはマイク。「聴さん」は私のしゃべった言葉を無線でとばす機械であったのだ。
世の中そう甘くはない。
本日は満月であるため本堂ではプルチェン(PHUR CHEN)の壇が作られ、法要が行われている。
そのあと、ヤルツァンポ川を渡し船でわたり、ラサに向かう。渡し船にゆられながら、、「ついこの前はライン川で今度はヤルツァンポかよ。ああ、多摩川がこいしい」と世界をまたにかけたわがみの流れっぶりに、ホームシックになる。
次なる訪問地、ガーワトン寺はツォンカパがウマパとともに瞑想修行をした地として知られる。ツォンカパはウマパに降りてくる文殊と語り合うことによって、中観帰謬論証派の哲学の解釈や自らの前世・来世についてのインスピレーションを得た。ツォンカパの哲学は超論理的で整合的であるが、その論理的体系をつくりあげるに際しては、このような神秘的なエピソードがたくさん伝えられている。
神秘と論理が排斥しあうことなく共存しているところが、チベット仏教のすごいところである。
寺にむかう道の途中にはセメント工場があり、あれはてた様相を呈している。貧しそうなガーワトン村を通過し、バスが横転しないのが不思議なのぼりのはてに、ガーワトンの寺はあった。
この寺、まったく人の気配がない。「この寺はもう死んでいる」(by ケンシロウ)のかと思ったら、十名をきるこの寺の僧侶は現在どちらかによばれて長寿法要中(テンシュク)とのことであった。ただ一人留守番に残った僧の案内で本堂にいくと、他で見ることのないウマパの像や、この寺を本拠地とする護法尊の像があり、なかなかおもしろい。
そこで例によって「ツォンカパの瞑想堂があるのでは」とつめよると、その僧「ある」というのであとについていくと、本堂の裏に、ツォンカパの瞑想洞があった。
この窟は今まで訪れたどの瞑想窟よりも天井が低く、しかして中は広く、荘厳な感じがした。 窟内にはやはりツォンカパの像が祀られており、かわるがわる窟内に入りお参りをする。
なだらかな丘がおおいラサ近郊の山々とは異なって、ここガーワトンの岩山はきりたった妙義山のような山容を誇っている。昨日のウルカも石灰をほる場所があったが、ここガーワトンもセメント工場があることからわかるように石灰質の山のようである。チチブの聖山武甲山も石灰質でチチブセメントだし、石灰は精神集中にいい場をつくるのだろうか。誰か教えて。
第五日目
朝はポタラ宮へ。やっと、何か普通の観光ツァーらしくなってきた。ははは(力ない笑い)。
しかし、青蔵鉄道の開通による中国人観光客の激増をうけて、ポタラ宮の床が抜けないように、この七月から、ポタラ宮は一日の入場者数を限定し、一つの団体が一時間以上観光することを許さなくなった(百元もとるくせに)。
一時間でまわらせるために、当然いろいろな部屋を通行禁止にし、要所要所に怖いオッサンがたち、牛馬のごとくわれわれを追いたてるシステムとなっている(百元もとるのに)。
赤宮四階から説明をはじめ、ポタラ宮オタクのわたくしは、神のようなガイド魂を炸裂させる。そして、「さあ、みどころの赤宮一階大広間ですよ」といった瞬間、私の目にとびこんできたのは、広間をかこう工事中のシマシマ、ビニールシートであった。一行の耳に「聴さん」を通して私の「なんじゃこりゃあ」の声がひびきわたったのは言うまでもない。
これは後に、「ポタラ宮にて、なんじゃこりゃあ、と叫ぶ」として、イシハマ三大事績の二つめに数えられることとなる。
しかし、当局の対応はあまりにもひどい。ポタラ宮の底が抜けそうなら、いますぐ観光客を全面的に立ち入り禁止にして抜本的な対策をとればいいのである。百元もとって、工事中とか、一時間とか半端な公開をするのはサギに等しい。
このあと現在ラサでもっともはやっている神様タプチ寺にいく。この寺には緑色の顔にベロをだす鳥足の女神が祀られている。この女神はビジネスの成功に霊験ありということで、ラサ中の商店やレストラン、はては乞食にいたるまでこの女神のブロマイドをもっており、水曜日になると人々の捧げる香により、煙がモーモーとこの寺からたちのぼり、ポタラから見下ろすとこの一角、まるで火事である。
わたしはそのようなはやり神としての興味に加えて、この場所にも興味があった。このタプチは雍正11年に中国軍が駐屯して以来、中国軍の駐屯地として知られ、この寺にも、昔中国の大臣の刻んだ碑があったという。しかし、タプチ寺の坊さんは知ってかしらいでかそのような知識は何ももっていなかった。
ちなみに、タプチは今でも中国軍の駐屯地があり、チベット人の政治犯が収容されることで悪名高いタプチ刑務所がある。 報道の方、タプチ寺の屋上から刑務所の入り口とか建物がこっそり盗み取りできますよ〜。
そして、午後はトゥルナン寺(大招寺)へ。トゥルナン寺は言わずとしれた、ラサ随一の古刹である。ツォンカパはこの寺で53才の時に、すべての命あるものの幸せを祈願する大祈願会(ムンラムチェンモ)を創始し、以後この大祈願会はチベット最大のに年中行事として知られる。トゥルナンにおける大祈願会の創始は、ツォンカパの四大事績のうちの一つでもある。
さらに、オタクな話をさせてもらうと、ツォンカパはウマパにこの寺の二階で秘密集会タントラの灌頂を授け、さらに屋上の南側に二人で供物を並べてから、前述のガーワトン寺に参籠に向かったといういわくもある。
トゥルナン寺の僧侶を捕まえて、この伝記のエピソードを伝えて、大体どのあたりに二人がいたのかを確かめようとしたが、どの僧も何もしらん。ウルカやオンの僧侶たちと比べて、ここの僧侶は全体にまったくやる気がかんじられない。しかし、よく考えてみたら、小さなお寺では僧院長自らが案内にたってくれるが、ここまで大きな規模の寺になると、僧院長なんてアポないとでてこないので、われわれに対応するのは超下っ端の僧である。切符もぎりや部屋番をするような僧は当然あまり勉強ができない僧だろうから、何も知らなくても仕方ないのかもしれない。
数日前のウルカの僧侶たちのまじめさがなつかしい。
第六日目
本日はまずツォンカパの終焉の地ガンデン寺にいく。ガンデン寺はラサから車で一時間の地にあり、つづらおれの道をせっせとのぼってやっといきつく山の頂にある。
ガンデ寺は、ツォンカパ自身によって建立された唯一の僧院として知られ(セラ寺、デプン寺、ガンデン寺、タシルンポ寺はいずれも彼の弟子が建てた)、ガンデン寺の建立はツォンカパ四大事績の一つに数えられている。
見所は、ツォンカパの死後の直後に落慶されたヤマンタカ像(ヤンパチェ堂)とツォンカパの遺骸(の破片のおさめ)を収めた仏塔である。しかし、前者のヤマンタカ堂は何と女人禁制だという。一応「心はおじさんなんですが入れてもらえませんか」と頼むも、だめと、却下され、あっさりと諦める(嘘。カメラを男性に渡してとってもらう)。
この日は雨がふって寒く、ガンデン寺のコルラは断念。天気のいい日だと、山頂周辺をぐるりとまわるガンデン寺のコルラは絶景であるので、みんな、まわろうぜ。
このあと、ツォンカパの生前にたった密教の道場サンガクカル(密教城)にたちより、午後はセラ寺に向かう。おなじみのハーヤグリーヴァ尊の像足下に頭をつっこんで加持してもらい、そのあと名高いセラ寺の問答を見る。論理学のディベートをおこなう坊さんたちのまわりを西洋・東洋の観光客がとりまく様はなんか異様。
じつは私がセラ寺を訪問地に加えた目的は、この有名なディベート観光とは別にあった。
古層のツォンカパ伝によると、ツォンカパは晩年、セラチューディンという地で講義をしたり、著作を書いたりしていたのだが、ここにセラ寺ができるのはツォンカパの死後である。名前からしてたぶん近いところにあるのだろうが、セラチューディンとセラ寺がどのような関係にあると現地の僧が把握しているのか、確かめることが目的の一つであった。
セラ寺の僧侶によると、寺の右手背後にある岩山の(まあた岩山かよ!)にはりつく白い建物が、そのセラチューディンだという。「よっしゃ、たいした距離でない、いくぞー」と気勢をあげると、ガイドが「本当にいくんですか」と暗い顔をする。あの弥勒窟にわれわれを上らせたガイドがである。
聞くと、あの山はけっこう険しいのでのぼるのは難しく、セラ寺は盗難をさけるため高い塀で囲われているため、直線距離で寺の背後の窟の麓までいけず、一度正面玄関からでて、また裏に回り込まねばならないので、時間もかかるという。つまりガイドさんはついていけないというのである。しかし、ここまできて帰るのは何か悔しいので、志願者をつのって行くことに。志願したコアメンバーは、私を含めて四人。果敢にアタックすることとする。
セラ寺の正門をでて山の麓まで歩いていくと、巡礼のおとすプラゴミが多少気になるものの、絶景である。
そして岩山の麓にまでつき、ガイドさんに言われたような登山口を探す。それでなんとかある高さまでつけたものの、その先がどうしても足場がみつからない。この山は砂岩でできているのか、とにかく足場がわるく、しかもイラクサがやまほど生えており、うっかり草をつかもうものなら、手のひらに棘がぷすぷすささる。
暑い日で、体力のない私はそうそうにへたりこみ「私のことは捨てていってくれ。しかし、このデジカメ、デジカメだけはもっていってくれ」と男性二人に後事を託すも、やはり目の前にある瞑想窟にどうしても近づけず、われわれの頭上をずっとハゲタカが舞っており、われわれの事故死をまっているかようでキモイこともあり、全員、負け犬となってとぼとぼと山をくだる。
山の麓におりると、岩の裂け目から泉がわいており、巡礼たちが涼を取っていた。
いい加減疲れたわたしたちも、その群に加わる。
前を歩くO君が「先生、ここぬかるんでいますから気をつけて」というので、気をつけて石の上とかに足場をとっていたが、ここは大丈夫とおもった草の上に足をのせるとズブズブと足が泥にめりこんだ。その気持ち悪さに
思わず「ぎょぇー」と悲鳴を上げると、そのあまりの美声ぶりに、日本人はずっこけ、チベット人の巡礼は逃げてしまった。
決まりの悪い私は、ぬかるみに残った自分の足跡を「ねえ、この足跡が何億年後かに化石化したら、ツォンカパの足跡(シャプジェー) とか言われるかねえ」ととりなしたら、
S氏冷たく「単なる原生人類の足跡ですよ。イシハマ三大事績これにて完結ですね」と言われる。
「セラ寺のぬかるみにてシャプジェーを残す」
五日目
このあと、テンゲーリン、ラモチェ、リクスムゴンポ北寺、ギュメ寺、モスク、リクスムゴンポ南寺などのラサ旧市街の見所をまわる。最期にもう一度テンゲーリンにいき、円に換金できない中国の小銭をチベットの護法尊にすべて布施し、ウエルカム・カターをご本尊にささげる。モスクと南リクスムゴンボ寺の間で、後足でたちあがって合掌をする犬を発見。
さすが、聖地。犬まで合掌しとるわ、と思ったら帰り道、この犬は血のしたたる生肉にくらいついていて、われわれに目もくれなかった。敬虔であると同時にたくましいチベット仏教のパワーが何か犬にまで伝染しているようで、感心したよ(冒頭の犬の写真がそれです)。
というわけで、とても観光ツァーとはいえない、ものすごいコアな旅行であったが、重い高山病の人もでず、事故もなく、みなそれなりに「楽しかった、面白かった、めったにない経験ができた」と喜んでいらっしゃるので、まあよかったのだと思う。