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チベット学者(いやいや)抗日の中国を行く


 ここのところの研究テーマが「清朝のチベット仏教」であるため、この夏は北京と瀋陽での学術調査に行った。

 2005年の4月、北京・瀋陽・成都・上海で大規模な反日デモがおき、日本食レストランは投石をうけ、日系企業のカンバンは壊され、日本人留学生はぶん殴られ、日本人に対する悪感情はかつてないほど高まった。しかも、今年は中国いうところの「抗日戦争勝利六十周年」。とくれば、彼らのナショナリズムが八月から九月にかけてとくにボーボー燃えさかるのは容易に想像がつき、本当はこんな時に中国行きたくなはなかった。しかし、夏休みに研究調査をし、秋に論文をかき発表をするのが学者の生活である以上、平常心を崩してはならない。

(写真1)現在は軒下に商店がはりつく嵩祝寺。

 八月二十日、世界になだたるバッタ航空ノースウエストにのって北京に飛ぶ。バッタ航空なのでつくのが遅く、ホテルに入るともう深夜である。冷房のききすぎたホテルで寒さにふるえながら一夜明けると、早速、旧北京城内のチベット仏教寺院の現状調査を開始する。とまっているホテルは天安門に近い東交民巷という通りにある。ここはかつての大使館街であり、1899年、義和団の乱の際に拳匪に囲まれ外国人たちが籠城した地域である。

 義和団とは「中国が貧しいのはキリスト教に象徴される西洋文化の侵略によるものである」という考えに基づき、教会を破壊し、キリスト教徒とみれば外人・中国人の見境なしに虐殺していった事件である。ちなみに、中国の教科書ではこの事件は愛国運動として肯定され、拳匪のおこなった非道は一切触れられない。一方、それを鎮圧した側の八カ国連合軍の非道は事細かに描写されている。(写真2) 天安門と行列する人々

 天安門にでると日曜日なこともあり、毛沢東記念堂に向かう人々の行列がものすごい。ここには毛沢東主席の死体がエバーミングされて展示されている。宗教を否定する共産国家にあって、個人崇拝はその代替物である。天安門の前にはいつものように五星紅旗がひるがえり、毛沢東主席の巨大な肖像ががかかっている。1949年の10月1日、ここ天安門の上から毛沢東が新中国の成立を宣言して今の中国ははじまった。ここは北京観光の目玉であり、愛国教育のセンターである。

 さて、そこから旧宮の東南角にある普渡寺というチベット寺に向かう。ここには満洲皇帝がモンゴルのハーンよりその祭祀を引き継いだマハーカーラ仏が安置されていた。前に訪れた時には境内に民家がたちならび、本堂は小学校に使われており、まあ悲惨な状態であったが、今はひろびろとした公園の真ん中に本堂が王者のごとくそびえたち、公園のまわりは旧城の雰囲気をのこす町並みが再現されている。境内には、この公園をつくるために民家を4928人をたちのかせたとの説明書きがあった。国家権力が強いと再開発もスムーズに進みますな(笑)。

 しかし、小学校になっていたわけだから、歴史的なものは一切残ってない。このような形式だけの復元事業は北京にある主だった寺院のほとんどにおいて行われている。清朝の支配層であった満洲人はチベット仏教を信仰していたため、旧北京で大寺といえばほとんどがチベット系である。チベット仏教の守護尊白傘盖仏をまつっていた北海の闡福寺は、新中国の成立後は経済植物園となっていたが、去年から公園に整備して闡福寺として開放している(碑文があるだけだけど)。また古い北京を象徴する妙應寺の大チベット仏塔も長いこと民家に埋もれて不浄な公衆トイレとか根もとに建設されていて、関係者の涙をさそっていたが、ここも、民家や市場をたちのかせて一昨年面目を一新した。

 さらに、乾隆帝の師であったチャンキャの寺、嵩祝寺にいってみたら、またもや復元工事中であった。何でも、あと一二ヶ月したらこの工事も終わり観光地化する予定とのことである。

 寺の復元事業がこのように突貫で行われている理由は、共産党がチベット仏教の価値を再認識したから、なんてことは、死んでもない。早い話が、2008年のオリンピックをめざして、外国人受けしそうな古いものをそれらしく復元したいだけなのである。オリンピックの誘致をきめたここ数年、北京には環状高速道路が四重にまで張り巡らされ、地下鉄、モノレールが開通し、ホテルは供給過剰なくらいに立ちまくり、開発ラッシュである。その陰で古いものがどかどか壊されていることが示すように、政府には本質的な意味で古いものを大事にする気はない。

 いにしえより、中国人には体制を批判したくなると、目の前にある建物を寺であろうが、役所であろうが、歴史的建造物であろうが、見境なくこわすという習性がある。近いところでは六十年代後半において勃発した文化大革命によって寺院や史跡は壊滅的打撃を受けた(チベットの被害はそりゃーもう甚大よ)。そのために、歴史の国という割には、古いものは残っていない。日本の展覧会にきているような文物は最近地下から発掘されたがゆえに形をとどめていたものばかりである。地上にたっているものは、数百年サイクルで草木も生えないくらい破壊されるので、残らんのである。法隆寺が七世紀から凜とたっている国にそだったわれわれには、王朝交代のたびに暴徒化する歴史は理解しがたい。

 あ、でも明治の廃仏毀釈の時には、日本人も暴徒化したか。

 そして、翌日首都飛行場より瀋陽に向かう。瀋陽は満洲人が中国を征服して北京を都とする直前に都としていた町であり、ミニ北京といった風合いのある町である。ついでにいえば、古くは奉天という名であり、日露戦争の激戦地奉天会戦の地であり(今年でちょうど勝利百周年記念の年である。)、満洲国の主要な都市の一つでもあった。これが何を意味するかといえば、反日感情がさらに強いということ。中国の教科書には、「その土地によって適当な歴史教育を行うように」との但し書きがあり、つまりは旧日本軍の占領地であった現東北地方における反日教育は気合いが入っているのだ。(写真3)東塔

 案の定、空港から市内に向かうタクシーの運ちゃんは、いきなり「扶桑社の歴史教科書問題とか、九・一八をどう思うか」などと議論をふってくる。不快である。わたしは清朝のチベット寺護国四寺の調査に来たのであり、彼の仕事は私をこの四つの寺に連れていくことである。われわれの関係はそれ以下でも以上でもない。にもかかわらず、この運ちゃんは、そもそも南寺の位置すらしらず、やっとその場についてわたくしが南塔で碑文をとったり位置測定などをしたりしていると、「こんなに待たせるならもっと金だせ、そうでなきゃ行かない」とのたまう。

 幸いにもタクシーの多い町なので、この運ちゃんとはホテルのチェックインで手を切って、あとは目的地ごとにタクシーを乗り換えることにする。この方が急かされなくてゆっくり調査ができるし。タクシーの運転手に至るまで反日の議論をふっかけてくるこのような現状にうんざりしていると、同行している中国留学経験のある二人は「先生、こっちでは政治の話は日常の話題で、みんな好きなんですよ。別にこちらを不快にさせようとして言ってるんじゃないですよ」ととりなす。

 しかし、島国育ちの私としては、人のつきあいとはそれがどんな軽いものであれ、政治と宗教と野球の話題をだすことは御法度であると思う。それぞれの信じる所を尊重してこそ、大人の関係が生まれるのであり、自分のみを是として他人を非とするところには孤立と紛争があるのみである。

 と、きばってみても、かつての満洲皇帝の菩提寺實勝寺(皇寺)を訪れると、山門には「抗日戦争勝利六十周年記念法要」とかあって脱力する。この寺は清朝初の四体碑文(満洲語・モンゴル語・漢語・チベット語)の碑文がたつチベット寺であるが、その碑文はもうなくなっていた。寺の外側は一応のこっているが、古いものは何も残っていない。このナッシング状態については、日本人にも責任がある。この寺の東西配殿にあった大蔵経は二十世紀初頭、内藤湖南が日本にもちかえった結果、関東大震災で燃えちゃったから。

 皇寺の前には歴代清朝皇帝の巨大なブロンズ像がならぶ。観光スポットとして売り出したいようだが、清朝の創始者ヌルハチの像に近所のおじさんがたち○ョンをしており、ぜんぜん愛されていない。(写真4)皇寺。抗日戦勝利六十周年記念法要の横断幕

 さて翌日には瀋陽故宮を参観し、旧城の八つの門と四つの交差点と四つの城角の位置をGPS測定する。

 この測定が結構命がけ。中国の町はかつてどれもぶあつい城壁に囲まれていた。当然近代に入ると交通の障害になるとして撤去されそのあとに広大な道幅の道路ができる。旧城の門と道の位置を測定するということは、当然、この大通りとそこに交差する道の上で行うことになる。具体的に言えば車がびゅんびゅんいきかうなか、青信号で横断歩道を渡るその真ん中でたちどまって計測をすることになる。ところがそういう時にかぎって、四つキャッチすべき衛星が三つになったりする。つかまるまで待っていると信号は赤にかわり、えらいことに。さらに、日本では右見て左見て道を渡るが、こちらは車と人の関係が逆なので、左見て右見てわたらないと死ぬ。しかし、身に付いた習慣により気を抜くとすぐ日本仕様に戻り、ひかれかけるというわけ。まあ一応無事に帰ってきたが、道路の真ん中での位置測定はやはり無謀であった。わたくしは研究に命をかける程の根性はないので、なんどもやりなおして時間がかかる(途中でノートを風にとばして探しにいったりもしたし)。(写真5)ヤマトホテル、レストラン

 瀋陽の宿、遼寧賓館は旧満洲時代ヤマト・ホテルと呼ばれた満鉄のターミナルホテルであった。現在のレトロ・ブームでこの満洲国時代のヤマト・ホテルを泊まり歩く人も多いらしい。日本人が政治と全く関係なくレトロな建物を愛でる気分は、中国人には理解できないだろーな。

 さて、再び北京にもどりせっせと文書館にかよって清朝時代のチベット寺の記録を手写する。朝八時にあく文書館にタクシーでのりつけ、四時までいつづけるストイックな一日である。文書館が終わると本屋をめぐり(三聯書店・考古出版・商務院書館・新華書店)、食事をして帰る。中国料理をたべるとお腹を壊す体質なので、滞在中は朝鮮冷麺とファーストフードをゆききする貧しい食生活である。日本ではほとんど入らないケンタッキーやマクドナルドにどうかするとタクシー代かけて通いたくなるのだから中国料理とは恐ろしい。食事が終わると、大体王府井の北はずれにある東堂の教会広場にペプシコーラなんぞ片手にすわり(ちなみにペプシは中国以外で飲んだことはない)、人々の群をウォッチングをする。

 ワタシの姿はだれがみても中国人だったであろう。(写真6)東堂の教会広場

 はでなバッタTシャツにジーパン、秋葉原の中国系バッタ屋でかった千円のコンピューターバッグ、細身、眼光するどく振る舞いはガサツ、ここ数日わたしは口をきかない間に日本人に見られたことは、自慢ではないが一度もない。ちなみに、口をきけば新疆のウイグル人かと言われた。

見た目中国人なかみは日本人の私は、目の前を行き交う人々をみながら思考する。

歴史が常に政治の道具でありつづけた国。

一党独裁の国で、政治に参加できないにもかかわらず、政治や国について語るのが何よりすきな人々。

 暴動で王朝を交代させてきた人々。(写真7)本やでも抗日戦勝利六十周年記念フェア

 現在、中国共産党は歴史の授業をキョーレツな愛国教育の場としている。一党独裁の共産党の国でありながら、経済は自由にしてしまった結果、国の統合がゆるんできた。そこで、共産党は考えた。帝国主義日本の侵略により分裂していた中国を、一つの中国に統一した過去の功績を、何度も繰り返し強調することによって、党に対する忠誠心をはぐくもうと。

 そして、中国の歴史教科書はすごいことになった(翻訳が明石書店『中国の歴史教科書』にあります)。旧日本軍による強姦・虐殺といった刺激的な言葉が中学生の歴史教科書にすらならび、日本軍に抵抗して戦死した壮士・烈士の武勇伝が礼賛され、自国に対しては絶対的肯定・礼賛、侵略者に対しては憎しみと怒りを植え付ける。

 しかして、教育というものは特定の他者に対して憎しみや怒りといった感情を植え付けることではあるまい。なぜなら、怒りや憎しみは次なる紛争の原因となるだけだからである。真の教育とは、他者の立場を思いやる気持ちを育むことであり、侵略精神そのものを批判することを教えることにある。

 思春期の子供が覚えなければならないのは、非暴力、他者に対する思いやりであり、国益や私利私欲に基づく憎しみや怒りではない。

 かつての日本軍のやったことは確かに恥ずべきことであった。しかし、体制も世代もかわり日本は中国よりはなんぼか平和な国になっている。しかも、六十年もたった今、自国の体制維持のために他国をおとしめる言動を続けるのは、立派な国家のすることとはいえまい。

 真のナショナリスト(愛国主義者)たらんとするなら、それぞれの分野で優れた働きをして(スポーツ選手なら大リーグでホームランうつとか、科学技術の分野ならノーベル賞とるとかして)客観的に国の評価をあげればいいのである自国の利益のために、他国をののしり、その企業のカンバンをこわし、投石し、国旗を燃やしたりしても、そんな行為は愛国でもなんでもない。そんな人間は自国の未熟さを露呈しているだけで、長い目でみれば国を滅ぼすだけである。

 と、私一人がどう思おうとも、ゆがんだ教育を受けたこの国の人間は十二億もおり、どうかすると日本にもそんな勘違いナショナリストが育ちはじめているので、ウツになる。

 日本に帰って、久しぶりにテレビのスイッチをつけると、折しも衆院選まっただなか。中国人なら三歳の子供でもしっている靖国問題は争点にすらなってない。テレビにはホリエモン、カリスマ主婦、大蔵キャリア官僚などが候補者として登場し、あたかも政治ショーのおもむきを呈している。平和である。

 中国人がとれほど日本を意識しようが、憎もうが叫ぼうが、大半の日本人は意に介さず、その日の生活を送っている。いろんな意見もあると思うが、「政治オンチ・外交オンチだけど、目に余る時にはサイレント・マスが動いて体制をかえる」こういう日本人のゆるさはいいと思う。メンツとか、見栄とか、大儀とかうさんくさいものをふりかざさなくとも、日々の生活をきちんとやっている人が世の中を動かしている、こんな日本をわたしは好きである。

 今のところはね。