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ちょっち専門家のための

チベット史研究入門


  ごろうちゃん:

 「このコーナーでは、最新のチベット史の研究論文を紹介するそうです。

 ママはこの原稿は、ユネスコに頼まれて書いた原稿を流用したものではない、と言っていますが、怪しいものです。チベット史を知る上でのオススメ一般書は以下の二冊です。

『チベット文化史Snellgrove 著 春秋社 『チベットの文化』R. A. Stein 著 岩波書店


 最新 研究論文 紹介

(a) 中国から見たチベット史

 チベット史を考える上で、インドと中国とモンゴルという三つの外国の影響はぬきがたいものがある。特に中国とモンゴルは、13世紀以後、経済的・政治的に大きな影響をチベットに与えてきた。モンゴルや中国の王侯とチベットの高僧との間には、程度の差こそあれ常にある種の施主・帰依処関係(Patron and Patronized)が存在し、モンゴルや中国からチベットの社会にもたらされる財貨はチベットにおいて寺廟の建立や大蔵経の開版等の宗教的活動を活発化させた。また、この関係に基づいて、チベットで一端紛争が生じた場合には、モンゴルや中国の軍隊がチベットに侵攻する場合もあった。従って、チベット史を解明する場合、チベット語史料と並んで、漢文史料やモンゴル語史料、中国が満洲人によって征服された後には満洲語史料の利用が必要不可欠となることは言うまでもない。一方、日本語はウラル=アルタイ語族であり、かつ、日本語の表記には漢字も用いられるため、日本人研究者にとっては、これらの言語の習得は比較的容易である。従って、一般的に言って、日本の研究はチベット語、漢文、モンゴル語、満洲語を縦横に駆使した質の高い研究が多い。
 チベット史は複数の外国の影響を受けていたので、チベット史を解明するには、大雑把にいって、内部からのアプローチと外部からのアプローチを想定しうる。具体的に言えば、モンゴルや中国に視点をおいて、いわば外からチベット史を見る場合と、チベットに視点をおいて内部から満洲やモンゴルや中国の影響力を評価する場合とである。このような意味において、前者の立場において精力的な研究を展開しているのが乙坂智子氏と中村淳氏であり、後者の立場に立つのが石濱裕美子氏である。まず、元朝・明朝の対チベット政策の構造とその歴史的展開を解明した乙坂氏の研究を述べよう。
 
乙坂智子氏は、なぜ、現在の中国は様々な問題を抱えているにも関らず、なおチベットを自国の領土として主張しているのか、という疑問を出発点とし、その歴史的な要因を追求しつづけている研究者である。乙坂氏によると、チベットと元朝の関係についての通説は、三種類に分類することができるという。一つめは、チベットは元代以降一貫して自国の領土であり、中国国内と同じ統治が行なわれたとの主張である。二つ目は、元朝はサキャ派を通じて間接統治を行った、ないしは、元朝とサキャ派の二元支配であったという説である。三つめは元朝はチベットにいかなる支配も行わなかったという説である。乙坂氏はこのいずれもが「支配」の概念規定が研究者などによって様々である事などを問題点としてあげ、元朝が中国国内とは異なった統治理念をチベットに対して抱いていた可能性を考慮すべきであると説いた。氏は、Allsen 氏の "The YUan Dynasty and the Uighurs of Turfan in the 13th Century" (1983 China among Equals. Berkeley: University of California Press pp.243-280) に触発され、元朝がウイグルや高麗に対してとった対外政策がチベットにも適用されたのではないかとの推測を抱き、広汎な漢文史料の精査を行う傍ら、同時に、チベット史料も用いてチベット側の権力構造をも明らかにしようとした。その結果、乙坂氏は元朝はウイグルや高麗に行ったのと同様の政策をチベットに施行したとの見解に達し、その統治の強弱の変遷を明らかにした。最近は乙坂氏の研究は元朝の対外政策一般にまで広がりをみせている。近年日本では杉山正明氏を始めとする研究者が、元朝の世界帝国的性格に着目した研究を盛んに行なっているが、乙坂氏の主張は元朝が外交政策の面では中国王朝的な性格を有していたことを証明したという意味で杉山氏の研究とは対照的なものとなっている。

 乙坂智子氏は「サキャパの権力構造−チベットに対する元朝の支配力の評価をめぐって−」(1989『史峯』3 pp.21-46)の中で、サキャ派内部の権力の所在を検討し、結果として、従来元朝のチベット支配のチャンネルと言われてきたプンチェン(dpon chen)、白蘭王、帝師などの職掌は、いずれもサキャ派の権力構造の頂点にはありえず、伝統的なサキャ寺の座主の権力こそが、この位置にあることを示した。そして、座主権力の消長から、元・チベット関係を以下の四期に分けた。(第一期)元朝から授与された帝師の称号と座主権力が相乗してチベット内でサキャ派の優位が固まっていった時代。元朝から見るとチベットに対する間接支配が主張された時代。(第二期)コン氏出身の座主が不在となり、元朝によるチベットの間接統治が強化されようとしたが、反サキャ派勢力の台頭により挫折した時代 (第三期)コン氏出身の座主を頂点とするサキャ派の権力機構が復活し、元朝のチベット支配は名目的なものとなり、宗教者に対する尊崇という性格のみが残った時代 (第四期) コン氏の分家により座主権力の相対的に低下し、元朝はもはやチベットに対して何らの政策意志も抱かなくなった時代。つまり、元朝とチベットの関係を、元朝のチベット間接統治が、時間をおうにつれて、チベット側による中国王朝の利用へと変質していった過程であると結論づけたのである。
 同氏はさらに
「リゴンパの乱とサキャパ政権」(1986『仏教史研究』29-2 pp.59-82)の中で、1292年に、プンチェンのアクレンが元朝の軍隊を引き込んでおこしたディグン派殲滅作戦を、元・チベット関係の推移の中で捉え直した。同氏によると、この事件の本質はサキャ派が元朝の軍事力を利用し自らの覇権を脅かす対立勢力を葬ったことにあり、チベットが中国との政治的関係をひらく転機となったものであるという。本論中の歴代プンチェンの事跡の要約は有用である。 
 また、
「元朝チベット政策の始動の変遷−関係樹立に至る背景を中心として−」(1990『史境』20 pp.49-65)は、フビライの時代におけるチベットへの様々なはたらきかけを具体的に明らかにし、結論として、フビライのチベット政策は、直接の軍事的必要に迫られてのものではなく、元朝が抱く属国としてのありかたチベットにも構築しようとした、極めて理念的な政策方針があったことを明らかにした。
 そして、
「元代「内附」序論−元朝の対外政策をめぐる課題と方法−」(1997『史境』34 pp.29-46)および「元朝の対外政策における高麗王族の入朝活動」(1998『蛮夷の王、胡羯の僧』平成8・9・10年度科学研究費補助金報告書 pp.1-48)の二論文によって、乙坂氏は元の対高麗政策を参考にしながら、元朝の属国に対する理念的な政策方針とは、以下の六つの項目の遂行を強要するものであったことを明らかにした。その六つとは、(1)王族から人質を差し出す事 (2)元軍に従軍する事(3)軍の補給を手伝う事(4)駅站を設置する事(5)戸口調査を行う事(6)長官をおく事であり、元朝がチベットに対して行ったさまざまな行動はこの六つを達成するという方針に沿ったものであることを示し、元朝の対チベット政策を元朝の対外政策の一貫としてグローバルな視点からとらえるべきであることを提唱した。
 乙坂氏の問題意識はさらに、モンゴル人王朝である元朝ならまだしも、漢民族王朝である明朝が、なぜチベット仏教を元朝に引き続いて厚遇したのかにも及んだ。
「永楽5年「御製靈谷寺塔影記」をめぐって」(1997『日本西蔵学会会報』41・42 pp.11-21)では、1407年に明の永楽帝がカルマ派五世を南京に招請した際、永楽帝のまわりで様々な瑞祥が生じたという著名な事件を検討し、結論として、永楽帝は儒教思想を背景に存在する科挙官僚に対抗するため、稀少性の高いチベット仏教を皇帝の儀礼として導入し、そのことにより、官僚層とは一線を画す強大な権威を宣揚しようとしたものとみた。
 また、
「在京チベット仏教僧に対する明朝の姿勢」(1998『蛮夷の王、胡羯の僧』平成8・9・10年度科学研究費補助金報告書 pp.49-145)では、明一代にわたってのチベット僧の宮廷への来訪の全記録を『明実録』から抽出し、その規模の消長や宮廷の対応の変化を分析し、結論として、明廷のチベット僧は皇帝が官僚層に対して自己の優越を示すために存在したとの結論に及んでいる。本論文で示された明の宮廷に活動するチベット僧の記録の分析・整理は、基礎研究として極めて有用なものである。
 さらに、
「明朝チベット政策の基本的体制−法王号・王号授与をめぐる考察−」(1991『第二届中国政教関係学術研究討論会論文集』台北淡江大学 pp.17-49)では、明はその初期において元朝の対外政策の一部を引き継いでいる事を示し、さらに、明朝がチベットの各宗派の長に授与した称号を綿密に検討し、その結果、「法王」という称号と「王」という称号の間には、朝貢に際する規定も、称号の継承に際しての手続きも、その職能も、すべてにわたって差異が存在していたことを示した。そして、「法王」は、明朝などに招請されて宮廷で儀式を行う遊行する宗教的権威に対して授けられた称号であり、「王」はチベットにあって政治権力を担当する者に対して授けられた称号である、と結論づけた。
 
「明勅建弘化寺考−ある青海ゲルクパ寺院の位相−」(『史峯』6 pp.31-63)と"A Study of Hong-hua-si Temple Regarding the Relationship between the dGe-Lugs-Pa and the Ming Dynasty"(1994 The momoiers of the Toyo Bunko, 52 pp.69-101)の二つの論文は、ゲルク派と明朝の関係についての従来の学説を弘化寺という青海のゲルクパ寺院のあり方を解明することによって再考察したものである。従来、Wylie氏を始めとする研究者が、ゲルク派の宗祖ツォンカパが明朝の招請を断ったことや、『明実録』にはゲルク派の記録が少ないことなどを理由にして、ゲルク派と明の関係は疎遠であるという主張を行ったが、乙坂氏はこれに対して、青海のゲルク派寺院である弘化寺が頻繁に明と交流していることを示して、これに疑問を呈した。そして、弘化寺の座主は現地の政治権力者である張氏の出身者が代々つとめていたこと、また、弘化寺が明朝の辺境防衛のための要塞として重要な役割を果していたことなどを指摘し、弘化寺には青海の在地勢力の拠り所、ゲルク派の地方寺院、明朝の要塞の三つの機能が存在していた事を示した。
 
「ゲルクパ・モンゴルの接近と明朝」(1993『日本西蔵学会会報』39 pp.1-7)において、従来の、ダライラマ三世がアルタン=ハーン(Altan qaGan)によってモンゴルに招請された事件は、明朝との交流を嫌ったゲルク派がモンゴルに接近したという通説に対して、乙坂氏は、ダライラマ三世が明朝の官僚の要請をうけて、モンゴルが青海において軍事活動を行うことを諌めた等の事実を指摘して、これに疑問を呈した。そして、ダライラマ三世のモンゴル巡錫とはチベット・モンゴル関係の開始であると同時に、チベット・モンゴル・中国の三国関係が新たに築かれた最初の事件であったとの解釈を示した。

 次に、同じく元朝から見たチベット仏教の研究として中村淳氏の研究を述べよう。同氏の新発見の蒙漢合壁少林寺聖旨碑」(1993『内陸アジア原語の研究』VIII pp.1-92)は、元朝の三人の皇帝(モンケMOngke、フビライQubilai、アユルバリバトラAyurbaibadra)の四つの勅書を刻んだ少林寺碑文(河南省登封県)に対する詳細な訳注である。同氏はこの碑文史料等を用い、「モンゴル時代の《道仏論争》の実像−クビライの中国支配への道−」(1994『東洋学報』75-3・4 pp.33-63)の中で、1258年にフビライが主宰した、著名な道教と仏教の御前論争を検討した。その結果、中国支配にあたってモンゴルに重用されていた道教の全真教団が、その頃モンゴルにとって様々な弊害をもたらしはじめていたため、フビライはこれを廃して全真教団と対立していた仏教の禅宗教団を表舞台にたたすために、この御前論争を行ったと論じた。そして、フビライがこの論争で活躍したチベット僧パクパ('Phags pa)を漢人仏教教団の上に位置付けたのは、禅宗教団を全真教団のように政治に介入させないためであると分析した。
 また、
「元代法旨に見える歴代帝師の居所−大都の花園大寺」(1993『東洋学報』27 pp.57-82)は、フビライの帝師を務めたパクパの命令書(法旨)を用いて、チベット史料に歴代帝師の居所として記される花園大寺(Me tog ra ba'i sde chen po)が大都の大護国仁王寺にあたることを明らかにしたものである。

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(b)  チベット史料・満州文献から見たチベット史


 乙坂氏や中村氏がチベット史を、主に元朝・明朝の対チベット政策という視点から手掛けたのとは対象的に、
石濱裕美子はチベットに視点をおき、チベットで生じた歴史認識がチベット史ばかりか、チベット仏教の信徒であるモンゴル、満洲の歴史にも影響を与えていたという側面に光をあてた。
 チベットの歴史文献は、年代記(chos 'byung) が、文字通り仏教弘通の歴史であり、伝記(rnam thar) は全て聖者伝であり、その他の歴史文献も寺院の座主系譜(gdan rabs)や転生系譜('khrungs rabs) であることが示しているように、すべて様々なレヴェルからチベット仏教弘通の歴史を述べたものである。たとえ王統譜(rgyal rabs) と銘うたれたものでさえ、王の事績は仏教の外護者ないしは仏の化身としての文脈においてのみ記述される。また、埋蔵教説 (gter ma) と呼ばれる文献群に記された歴史記述はさらに複雑な性格を持つ。埋蔵教説とは古代のある時期に記され埋蔵された文献が、後世に掘り出されたとされる文献群である。しかし、そのほとんどは古代チベットの人々によってではなく、発掘者を始めとする後代の者の手になったものと言われ、成立年代ですら確定し難い。このような性格の歴史文献を用いてチベット史を再構築することは、自ずと困難を極めることとなる。従来のチベット史研究は、歴史事実を探求し科学的な歴史記述を追求したため、チベット文献を用いる場合は、宗教的記述を極力廃し、歴史的・政治的な意味を持つと思われる記述のみを文脈から切り離して用いてきた。
 史料を史実とそうでない部分に斬り分けて取捨選択し、歴史事実を探求していくという姿勢は確かに重要である。しかし、宗教的視点から書かれ、歴史性の希薄なチベット文献から「史実」をあぶりだそうとしても、そこから掴みとれる「事実」は量も質も自ずと限られてくることも、疑いようのない事実である。史料の史実と史実でない部分をきりわけ、史実の部分だけ用いるという姿勢には、史実と非史実の線引きが研究者の主観によって左右されやすく、また、史料の全体的性格を無視して一部分を利用するため、往々に文脈を無視した誤読がおこなわれる傾向があるという点でも問題が多い。
 そもそもチベット史料では理想の政治を示す言葉として政教一致(chos srid zung 'brel)という言葉が頻繁に用いられることからも解るように、チベットでは政治と宗教は常に元来不可分のものであると考えられていた。このことはチベットでの歴史的事件を分析する場合には、宗教と歴史を斬りわけて考えるのではなく常にどちらの要素も考慮しなければならないことを示している。宗教的とみなされてきた事件が、極めて大きな政治的影響力有するものであったり、逆に、非常に政治的と思われる出来事にも宗教的な要素が含意されている場合が多々あるのである。
 あるチベットの支配者が自らの政治的行動をとるにあたり、過去の聖王の事績にならったような場合、その聖王の事績自体が史実でなかったとしても、その支配者の行動を史実でないとは言えない。つまり、宗教的な歴史文献であっても、史料を記した人々、それを読んだ人々がそれを史実であると捉え、彼等の歴史意識に影響を与えた以上、その文献は歴史の当事者達の行動の理由や意識を知るための「史料」として用いることが可能なのである。石濱はこのような姿勢で、宗教的な行動に政治的な意図を、政治的な行動に宗教的意味を見出そうとした。
 チベットの歴史文献に共通するテーマの一つに、仏・菩薩が王に化身して理想的な統治を行なうというものがある。この転輪聖王(cakravartin)と呼ばれる菩薩王の代表としては、観音菩薩の化身でありチベットに初めて仏教を導入したとされるソンツェンガムポ王とそれに続く古代チベットの諸王があげられる。石濱は、転輪聖王思想のみならず、転輪聖王とされるソンツェンガムポ王に帰せられる様々な事績が、チベットのみならずチベット仏教の伝播した様々な地域の支配者によって手本とされたことを示した。
 まず、
「パクパの仏教思想に基づくフビライの王権像について」(1994『日本西蔵学会会報』第41号. pp.1-3)では、『析津志輯佚』に記された、チベット僧パクパの勧めによってなされたフビライの王権儀礼は、フビライが転輪聖王であることを示すためのものであることを明らかにした。また、元朝の都で最大の祭である白傘蓋仏会は中国仏教ではなく中央アジアの仏教に起源するものであり、その儀式内容も経典に記された攘災儀礼を忠実に行ったものであることを明らかにした。
 また、石濱は
「『アルタン・ハーン伝』に見る十七世紀モンゴルの歴史認識について」(1995『日本モンゴル学会紀要』25, pp.1-14)において、モンゴルの王侯アルタン=ハーンがダライラマ三世をモンゴルに招聘した際に建立した寺廟の名称や、ダライラマ三世から賜った称号名や、灌頂の内容などを検討し、それらが、すべて古代チベット王によるパドマサンバヴァの招聘や元朝のフビライ=ハンとチベット僧パクパの関係を忠実に再現したものであったことを示した。
 また、"
On the Dissemination of the Belief in the Dalai Lama as a Manifestation of the Bodhisattva Avalokitesvara".(1993 Acta Asiatica. No.64, pp.38-56)では、nyi zla zung 'brel などのチベットの法律文書の前文から、ダライラマ五世の権威が摂政、グシ=ハーン(Gushri qaGan)をしのぐ時期が1655年頃であること、その頃、ダライラマ五世が自らを観音菩薩の化身にしてソンツェンガムポ王の転生者であると示す様々な行為(ソンツェンガムポ王が建立した寺廟の復興・同王の遺址の巡礼・ポタラ宮の造営・転生譜の作成)を大衆の面前で示していた事を明らかにした。そして、このことから、ダライラマは観音菩薩の化身として認められることにより、摂政やグシ=ハーン王家の権威をしのいでいったのではないかとの推測を行っている。
「ダライラマ招請の背景にある順治5年の清・モンゴル関係について−第一歴史档案館(The First Historical Archieves of China)所蔵『蒙文老档』を用いて−」(1998『史滴』20 pp.100-120)においては、北京の第一歴史档案館に所蔵されている順治年間のモンゴル文書『蒙文老档』(Old documents written in Mongolian language)を用いて、清朝によるダライラマ五世の招請が具体化したのが順治5年であること、その時清朝は西北地帯をイスラム教徒に制圧されており、その背後から現われたグシ=ハン勢力の帰趨を計りかねる状態であったこと等を示し、結論としてダライラマ五世の招請とは、清朝が西北防衛のためグシ=ハン一族との宥和をめざした結果実現したものであるとした。
 
「チベット文書簡の構造から見た17世紀のチベット、モンゴル、清関係の一断面」(1998『アジア・アフリカ言語文化研究』55, pp.165-189)では、従来歴史史料として用いられることのなかったダライラマ五世の書簡群を用いて、チベット文書簡の形式を明らかにし、この形式を用いてダライラマ五世とジュンガル(jegUn Gar)の王侯ガルダン(Galdan)の書簡を検討した。その結果、ダライラマ五世は清朝皇帝に対しては同等のものに対する形式を踏み、ガルダンに対しては目下のものに対する形式を踏んでいた事を明らかにし、ダライラマは清朝皇帝に対して謙遜はするものの目上とはみなしておらず、ガルダンを目下にみなしていたことを示した。一方、ガルダンはダライラマや摂政やシャーマンや一部の青海モンゴル王侯に対して目上のものに対する形式をふみ、それ以外のモンゴル王侯や僧には目下に対する形式を踏んでいたことを明らかにし、ダライラマ五世とガルダンの間には、前者の後者に対する上下関係が両者ともに認められていたことを示した。
 
"A Study of the Seals and Titles Conferred by the Dalai Lamas". The Proceedings of the International Association of Tibetan Studies. (1992 Seminar of the International Association for Tibetan Studies. pp.501-514)では、ダライラマ五世は中国の皇帝と同じように、印象や称号を受給することによって青海王侯をはじめとするモンゴル人に君臨していたことを示した。歴代ダライラマの授与した称号はモンゴル世界でも清朝世界でも通用するものであり、特にハン号はダライラマに授かるものという通念がモンゴル側にも存在していたことを示した。以上の石濱(1992)(1998)は、チベットが文化的にも政治的にも、モンゴル、満洲三国にまで及ぶ権威を有していたことを証明したものである。
 また、
「摂政サンゲギャムツォの著作に見る十七世紀チベットの王権論」(1992『東洋史研究』51-2, pp.56-76)では、摂政サンゲギャムツォ自作の転生譜thog med skal pa ma や『ポタラ宮造営目録』 ('dzam gling rgan gcig) を用いて、サンゲギャムツォの権力は従来言われていたように五世の権力を纂奪ないし騙ったことからではなく、同化することによって得られたものであることを示した。
 さらに石濱は、
「ジュンガルのチベット侵攻前後における青海ホショトとジュンガルの協力関係について」(1988a『早稲田大学文学研究科紀要』別冊14集. pp.199-211)、「東洋文庫所蔵『撫遠大将軍奏摺』と中国社会科学院歴史研究室編『清史資料』第三輯所収『撫遠大将軍奏議』」(1988b『モンゴル研究』18, pp.3-17)、「清朝のチベット平定に対する青海ホショトの立場」(1988c『日本西蔵学会会報』34, pp.1-7)、「グシハン王家のチベット王権喪失過程に関する一考察」(1988d『東洋学報』69−3.4, pp.151-171)の四つの論文とそれを改訂・要約した"A New light on the "Chinese Conquest of Tibet" in 1720--based on the new Manchu sources--(1997 Proceedings of the 7th Seminar of the International Association of Tibetan Studies vol.1. Verlag der Osterreichischen Akademie Der Wissenschaften. Wien. pp.419-426)において、1717〜1720年のジュンガルによるチベット占領と、それに引き続く清朝によるチベット征服という歴史的大事件に関する通説に対して、新出の満洲文史料やモンゴル文史料などを用いて、数々の修正を行った。以下に各論文を紹介しよう。
 まず、石濱(1998b)はこれら四つの論文の主要な史料となった『撫遠大将軍奏摺』の紹介論文である。この史料は1720年の清朝によるチベット侵攻の際の清朝軍の総司令官、康煕帝の14番目の王子允禎の奏銷集(memorials)である。石濱(1988a)では、1717年にジュンガルがチベットに侵入した際に、青海モンゴルの王侯と連携しており、侵入の目的はダライラマ七世の即位にあったこと、さらに、清朝が青海モンゴルの王侯を自分の側につけ、この連携を断ち切ったため、ジュンガルは孤立してチベットからの撤退を余儀なくされたことを示した。石濱(1988c)では、1720年に清朝がチベットに進軍する際に、文殊菩薩の軍隊を名乗っていた事、侵攻の目的はやはりダライラマ七世の即位であったこと、また、清朝は青海モンゴルの王侯の参加を待つまでは決して進軍しなかったこと等を明らかにした。そして、清朝が青海王侯の従軍を待った理由は、青海モンゴルの軍事力に期待してではなく、ダライラマ七世とその庇護者である青海モンゴルの王侯の歴史的権威を借りることにあったことを示した。以上の石濱論文はいずれも、ジュンガルであれ、清朝であれ、宗教的に正統とされる理由がない限りはチベットにおいて軍事行動が起せなかったことを結論している。石濱(1997)は、さらに清朝皇帝の勅書や『撫遠大将軍奏摺』を用いて、1720年に清朝がチベットに到達した後に成立した臨時内閣のメンバーが、ジュンガル占領下の内閣のメンバーと三人迄共通していたこと、また、清朝皇帝はチベットの秩序をダライラマ五世の時代に戻す事を言明していることなどを示した。これらのことから、1720年以後の清朝によるチベットの占領は、現代的な意味での支配や統治を意図したものでなかったことを示した。石濱(1988d)では、青海を清朝に内属させる契機となった1723年におきた青海モンゴルの王侯ロプサンダンジンの反乱の実情とは、ダライラマ七世を即位させる過程の中で生じた青海モンゴル王侯内の不和を口実に、清朝が青海に出兵して青海王侯を計画的に掃討・壊滅させた軍事行動であることを示した。
 
「18世紀初頭におけるチベット仏教界の政治的立場について」(1989『東方学』77, pp.143-129)では、摂政サンゲギャムツォが記したゲルク派の歴史書である vaidur ser po に基づいて、青海地域の僧院はチベットの僧院に比べて規模が桁違いに大きかった事、そして青海出身の僧侶達がチベットに滞在する際に入門するデプン寺のゴマン学堂は、17世紀、特に1717年から1720年の一連の事件の渦中にあって大きな政治的役割をはたしていたことを明らかにした。
 また、
「パンチェンラマと乾隆帝の会見の背景にある仏教思想について」(1994『内陸アジア言語の研究』9, pp.27-62)と「転輪聖王思想が蔵蒙清関係に与えた影響について」(1994『史滴』16, pp.59-64)では、『パンチェンラマ四世伝』や第一歴史档案館の史料などを用いて、乾隆帝によるパンチェンラマ四世の招聘は、古代チベット王朝のティソンデツェン王とインドの密教行者パドマサンバヴァ、元朝の皇帝フビライとチベット僧パクパの関係を忠実に再現したものであり、神学的には文殊菩薩の化身した転輪聖王(乾隆帝)の健勝を、西方の阿弥陀仏の化身(パンチェンラマ)が祈願するという意味があったことを示した。


 以上述べてきた一連の石濱論文は、(1) チベットで成立した歴史的神話 (2) 書簡の書き方などの文化的パターン (3) ダライラマの権威などが、チベット内部ばかりか、モンゴル、満洲にまで共有されていたことを証明したものであった。乙坂氏が中国側がチベットの上に虚構した統治理念とその実践を明らかにしたものであるとすれば、これとは対照的に、石濱の研究はチベット側が中国やモンゴルの上に虚構していた理念的支配とその実践例を明らかにしたものといえよう。


 以下に、その他の主な業績を簡単に述べる。最初に、それまでの研究を集大成した研究書として、
上山大峻氏の『敦煌仏教の研究』(1990)と佐藤長氏の『中世チベット史研究』(1986 同朋舎)が出版されたことをあげておこう。上山(1990)は、同氏が長年にわたりてがけてきた敦煌文書を用いた古代チベット仏教史研究の集大成である。同氏は本書が出版された後、北京図書館に所蔵されていた関連する敦煌文書を発見して「呉和尚蔵書目録(効76)について」(1997『日本西藏学会会報』41・42 pp.1-9)を補遺論文として発表した。佐藤(1986)は、古代チベット王朝崩壊以後、清中期のグルカ戦争に至るまでのチベット史の数々の重要事件についての論文集である。
 
村岡倫氏「元代モンゴル皇族とチベット仏教−成宗テムルの信仰を中心にして−」は、イスラム史料に記された元の皇帝のチベット仏教信仰を漢文史料とリンクさせつつ紹介したものである。
 
若松寛氏の「ザインゲゲン伝考証」(1983『内陸アジア・西アジアの社会と文化』山川出版社 pp.391-409)並びに「ラマイインゲゲーン考」(1990『中央ユーラシア史の再構成』昭和61年度科学研究費補助金(総合研究A)研究成果報告書60301051 pp.47-61)は、17世紀初頭にチベットからモンゴルへの仏教の導入に力あった三大活仏のうち、二人までの伝記を、基本史料である彼等のチベット文伝記より明らかにしたものである。同氏の「明末内蒙古土黙特人の青海地区進出」(1985『京都府立大学学術報告(人文)』pp.87-96)は、17世紀初に青海に駐留していたトメト部のホロチの事跡を、主に『アムド仏教史』(deb ther rgya mtsho)等のチベット史料を用いてたどったものである。また、「『紅史』著作年次考」(1988『京都府立大学学術報告(人文)40』pp.27-32)は、『紅史』(deb ther dmar po)の成立年次を考察し1363年と結論づけたものである。
 
山口瑞鳳氏は「十七世紀初頭のチベットの抗争と青海モンゴル」(1993 『東洋学報』74-1・2)では、『ダライラマ三世伝』(dngos grub rgya mtsho'i shing rta)、『ダライラマ四世伝』(nor bu'i phreng ba)等を利用してダライラマ四世の時代のチベット史を叙述し、さらに、「ダライラマ五世の統治権−活仏シムカンゴンマと管領ノルブの抹殺」(1992『東洋学報』73-3・4 pp.123-160)では、『ダライラマ五世伝』(du ku la'i gos bzang)を用いて、ダライラマ五世が活仏シムカンゴンマや管領ノルブなどを滅ぼして統治権を握ってく過程を叙述した。
 
吉田順一氏とその門下によって編集された『『アルタン=ハーン伝』訳注』は、ダライラマ三世のモンゴル巡錫の一次史料として有用な、モンゴル史料『アルタン=ハーン伝』(erdeni tunumal neretU sudur)の訳注である。注記部分には本伝に登場する膨大な地名・人名・言語に対する最新の研究が列挙されており、中でも特にモンゴル語の仏教用語をチベット語へ還元した註は、モンゴルに導入されたチベット仏教の研究に資するところが大きい。
 
井上治氏は「ホタクタイ=セツェン=ホンタイジ(QutuGtai secen qongtaiji)の活動と政治的立場」(1994『史滴』15 pp.31-46)は、ダライラマ三世のモンゴルへの招聘や、オイラト遠征などといった代表的なアルタン=ハーンの事跡の影には、常にアルタン=ハーンの兄であるメルゲン=ジノンの孫ホタクタイ=セツェン=ホンタイジの存在があったことを、モンゴル年代記 Erdeni yin tobci 他を用いて明らかにしたものである。
 その他、稀覯本に属する大蔵経の研究がいくつかあり、
三宅伸一郎「ガンデン寺所蔵金写テンギュールについて」(1997 『日本西蔵学会会報』41・42 pp.33-44)は、ポラネー(pho lha bsod nams stobs rgyas 1689-1747)の建立したテンギュルの成立事情、構成などが明らかにしたものであり、越智淳仁「セラ寺・永楽版とデプン寺リタン版について」(1997 『日本西蔵学会会報』41・42 pp.23-32)は、初のチベット大蔵経の木版印刷である永楽版カンギュル(1410)の構成内容と、リタン版(ljang edition)カンギュル(1623)の調査報告を行ったものである。
『チベット問題と中国−問題発生の構造とダライ・ラマ「外交」の変遷−』(1995『現代中国研究叢書XXXIII』アジア政経学会)は、現代中文史料・英文史料を広汎に駆使して現代チベット問題の構図を明らかにした大作である。
 最後になったが、
貞兼綾子氏の編纂になる A Bibliography of Tibetan Studies −1978〜1995−(1997)は、1978年から1995年に至るまでに記された漢文・日文・欧文のチベット学の研究業績の一般的手引きとして有用である。

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