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研究者が語る清・チベット関係


■平野聡著『清帝国とチベット問題』(古屋大学出版会2004/07)は、筆者によると、時代に存在したというチベットと中国との間に存在した民族統合の歴史を、成立から瓦解まで述べたものである。本書が発表された際、依頼原稿により二つの書評を出した。現在、清とチベットの関係について、いろいろな言説が錯綜しているため、新たな文を書こうかと思ったが、煩わしいため、この二つの書評を転載して清・チベット関係を歴史資料に基づいて研究する者の見解を述べたい。

 最初の書評が『歴史学研究』に掲載されたもので、後の書評が『東洋史研究』に掲載されたものである。清朝史の研究者、杉山清彦氏も『史学雑誌』(115-9, 2006.9)に本書の書評をだしているため、そちらも併せて参照されたい。


『歴史学研究』(No.804, pp.57-59, 2005年8月)の書評
 本書は現代中国の民族問題の中でももっともセンシティブなチベット問題を、歴史的淵源に遡って考えることを主題としている。そして、刮目すべきは、同書が清の盛期においてチベット仏教世界である満洲・モンゴル・チベットと、儒教世界である中国との間に、この異なる文化圏を統合する一定の「ナショナリズムの原型」が存在した、と主張している点であろう。それは外部に対して「強制力をもった枠組み」を形作るものであるといい、著者の独特な言い回しを借りれば、「儒学・仏教・イスラームいずれの発想に基づく王権の理念型にも収斂しなかった清帝国自体のありかたは、決して特定の発想に固執することなき、より高次元の自意識・世界観に支えられたものであ」るという。
 かつて、清代史の研究においても、また、17世紀から18世紀のチベット史の研究の中においても、 (満洲ではない)中国とチベット・モンゴル地域という二つの世界の間に、これらを統合する論理が存在した、と主張した研究は存在しない。従って、かりに平野氏の主張する民族統合の論理なるものが実在するとすれば、清・チベット史研究における重大な貢献と評すべきものであろうし、現代中国の民族支配に対しても大きな正当性を付与することになろう。まず、本書の構成をみてみよう。
 序章「チベット仏教と清帝国」においては先述したような「統合の論理」の存在が示唆され、第一章「『中華世界』と清帝国」においては、従来の「東アジア史」「中国史」の認識枠組みが無効であるとし、「より地域・時代横断的な枠組み・視点を獲得することの必要性」が示される。さらに、第二章「清帝国の統合における反華夷思想と文化政策」においては、中華帝国と藩部からなる「中外一体」の多民族的版図統合が形成されていくことが論じられる。そして、第三章「堯舜に並び超える『皇清の大一統』??その光と陰」においては、その統合の論理なるものが最盛期の皇帝達によって完成期を迎え、しかしてその後半から陰りが見え始めることが述べられる。そして、第四章「『自治』論の時代」においては、清朝が衰退期に入り多民族を統合する力を失い、結果清朝の統治エリートがチベットの自治に高い評価を与えていたことを明らかにする。そして、第五章「英国認識とチベット認識のあいだ」においては、イギリス、日本、ロシアの侵略によって多民族統合が瓦解していく時代を扱う。そして、結論においては、帝国主義の時代にあって、「チベット、モンゴルが中華人民共和国の領域主権の下に継承されることになったのは、『皇清の大一統』の領域統合の側面が、イギリスやロシアから見て明確に清帝国の影響力・宗主権の及ぶ範囲として認識されたことが大きな意味を持った」からであると、清代における「民族統合」ないし「領域統合」の歴史的意義を現代中国につながっていくものと位置づける。
 つまり、本書は清朝による「多民族の統合」や「版図の統合」なるものが、形成され(第二章)、完成したものの陰りがみえ (三章)、自治が始まり(四章)、瓦解する (五章)過程を追い、それが現代中国と連続する、と結論する論理構成をとっているのである。
 しかし、ここで問題となるのは、本書のどこを探しても、肝腎の「多民族統合」「版図統合」なるものの実体が説明されていないことである。また、平野氏の利用した史料も、またその利用の仕方についても問題が見受けられる。
 まず、史料について述べると、漢文史料ばかりであり、モンゴル語、満洲語、チベット語で記された史料は一つとして存在しないことが揚げられる。「チベット問題」という言葉を冠した書物に、チベット語の史料が一つも引用されていないという事実だけでも驚愕に値するが、論理的に考えても「多民族統合の論理」なるものの存在を主張するからには、統合していたとされる当該民族であるモンゴル人、チベット人、満洲人の言説にその痕跡を見いだすなりの努力をなすべきであろう。さらに、もう一つの問題点としては二次的な編纂・翻訳史料ばかりを用い一次史料を用いていないことが揚げられる。周知のことであるが、編纂史料や翻訳史料にはチベット語や満洲語からの翻訳の際に生じる誤訳・省略・改変の問題があり、そのまま用いるには問題が多いものである。
 しかし、本書最大の問題点はやはり「多民族統合」の存在が何ら証明されていないという点に尽きる。平野氏は「多民族統合」の論拠として、清朝の支配者層が漢文で述べた政治的な発言を史料批判も行わないまま数多く取り上げる。しかし、清朝の盛時、東アジアには「国境」「領土」あるいは「民族」などの近代的な概念は存在せず、これらの言葉はいかようにでも解釈ができる可能性を秘めている。従って、これらの発言に氏が主張するような意味があるとするには、歴史的事実を裏付けとして揚げることが要求されるのであるが、平野氏はそのような裏付けを全く揚げないまま「清帝国のチベットに対する権力関係」を大なるものとし、清帝国による諸民族の統合を所与のものとして扱うのである。
 「多民族統合」や「領域統合」を字義通りに解釈すれば、清朝がチベットやモンゴルを政治的に統合し、その居住域を領土として支配しているというイメージが浮かんでくる。平野氏がこれらの言葉に実体的な像を与えていない以上、一般の読者はこのイメージ通りに清朝とチベットの関係を解釈せざるを得ない。それでは、チベットは清朝から軍事、経済、政治などの諸側面においてこのイメージにふさわしい統治を受けていたのであろうか。答えは否である。
 清朝の盛時において、清朝とチベット・モンゴル地域との間には、チベット仏教の論理に基づく独自かつ密接な政治関係が存在したことはすでに多くの研究者によって指摘されてきた。しかし、その関係が実体的な支配・被支配関係、あるいは、領域支配であったのか、という問題については、中国の学界などの一部の学者を除けば否定的な見解が大勢を占めており、清朝がモンゴル・チベット地域に対して、領域支配を目的とする軍事行動を開始するのは、帝国主義諸国家の侵略を受けて清朝が弱体化し、漢人官僚が宮廷で力を持ち始めた19世紀後半からであるというのが大方の見方となっている。
 乾隆帝の末年に至るまで、清朝はチベットに何度か軍隊を派遣している。しかし、これらの派遣の動機は、征服ではなく、紛争の調停を目的としており、名目としては必ずダライラマ体制の護持が掲げられていた。また、その際皇帝は中華皇帝として行動するのではなく、仏教の護持者、文殊菩薩王として軍隊を指揮していた*1。
 また、外交儀礼の場においても、チベットを代表する高僧たちは皇帝の足下にひざまずくことはなく、皇帝と対等もしくは、皇帝の師僧として、皇帝の礼を受けていた。たとえば、1780年にパンチェンラマ三世が乾隆帝を訪問した際、パンチェンラマと乾隆帝は衆人環視の中で同じ高さの座につき、語り合った。この時、パンチェンラマは皇帝に対して叩頭を行わず、一方乾隆帝はパンチェンラマ三世主宰の仏教儀礼に参加する折には叩頭を行っている。チベットの高僧たちは乾隆帝から莫大な布施を受け取り、チベット仏教は繁栄を謳歌したが、その逆、すなわちチベット側が清朝の搾取に苦しめられたという事実はない。
 政治の側面から見れば、雍正帝代からラサに数名の清朝官僚、いわゆる「駐蔵大臣」が駐在するようになり、これは、現代中国の学者などにより清朝によるチベット統治の証拠とされている。しかし、貴族や高僧やダライラマの親族から構成されるチベット政府に対して*2 チベットに駐留するたった数名の清朝官僚がどれほどの発言力??支配者の名にふさわしいだけのもの??を有することができたのか、という問題になると、否定的な史料しかあがってきていない。そもそも駐蔵大臣というものがラサに派遣された動機はチベット支配を目的としたものではなく、対モンゴル政策の必要上ラサに駐留する清朝官僚を必要としたためである。しかも、当時清朝はチベットをモンゴルの侵入から守るべく軍隊を駐留させたかったものの、チベット側の要請がなければ軍事派遣を行うことができないという事情があったため、かわりに官僚を派遣したという経緯がある*3。また、その後の駐蔵大臣の行状より、彼らの立場は現代でいう現地駐在の外交官のようなものであったことがほの見えてくる。
 平野氏によると、清朝による「多民族の統合」は「外部に強制力を伴う枠組みであり」、形成し、育ち、瓦解するような実効的なものであるという。また、その統合の理論とは既存の宗教も民族も超えたものであるという。しかし、上述したように、「統合」の実体が何も証明できていない以上、氏の主張は、アメリカの軍事派遣について「アメリカは圧倒的軍事力と経済力を背景に、イラクやアフガニスタンに軍隊を派遣して『領域統合』をした。その際の『統合の論理』とは、宗教、民族より高次の次元にある『自由』『人権』であった」などと主張するのと、同レベルとなる危険性を孕んでいる。
 本書は清朝の他民族の支配原理や価値などをモデル化して示す、数々の図式に彩られている。しかし、学術研究というものは、そのジャンルの如何に拘わらず、個別の事例研究を積み重ね、それらを演繹ないし帰納することによって普遍的観念などを抽出したり、モデル化なりを行うものであろう。本書が主張する、清朝によるチベット・モンゴル等との統合という問題は、特にその存在の有無自体が議論されている研究対象であり、このような場合はなおさら、政治、法制、宗教、外交などの様々な分野における各時代の各事件ごとの具体的な事例研究を行った後に、両者の関係像を論ずることが求められる。しかるに、本書においてはこれらの検証も行わないまま「統合」の存在を所与のものとして扱い、実体なき観念論をそのまま実在世界へとあてはめようとする。これは歴史学、政治学という学問のジャンルの相違以前に、学術研究の姿勢として問題があろう。
 最後に、本書はジャーナリズムの世界において高い評価を受けていることを付け加えておきたい。04年度のサントリー学芸賞を受賞し、主要各紙の書評欄でとりあげられ、それがオンライン書店などにも宣伝文句として引用されているため、今後さらに一般に周知されていくことであろう。ジャーナリズムにおける評価がアカデミックな評価と乖離する現象はめずらしいことではなく、そのことについて改めて言うべきことはない。しかし、本書の場合、著者の意図するしないにかかわらず、現代中国によるチベット支配の正当化に利用される可能性も孕んでいることを考えると、本書の見解が内容の是非を検証する術をもたない一般の人々に、公器を通じて広まっていくことには強い懸念を覚える。
 以上、本書のいろいろな問題点について総論としての指摘を行ってきた。さらに、史料批判についての問題点、史料の読解に関する問題点、チベット仏教の諸相について語る際の誤謬などの具体例については、『東洋史研究』において稿を改めて述べたいと思う。


*1鈴木中正『チベットをめぐる中印関係史』一橋書房, 1962、Ahmad, Zahiruddin, Sino-Tibetan relations in the seventeenth century. Roma : Istituto italiano per il Medio ed Estremo Oriente, 1970、石濱裕美子『チベット仏教世界の歴史的研究』東方書店, 2001。
*2たとえば、グルカ戦争当時のチベットの実力者たちの相関関係については、小松原ゆり「18世紀後半期におけるダライラマの親族??その政治的役割を中心に」『文学研究論集 文学・史学・地理学』17, 2002, pp.39-57の研究がある。
*3 柳静我「『駐蔵大臣』派遣前夜における清朝の対チベット政策??1720-1727を中心として??」『史学雑誌』113-12, pp.59-83, 2004。20世紀初頭、チベットがイギリスの進駐を受けた際、駐蔵大臣がいかに無力であったかについては、玉井陽子「1904年ラサ条約交渉における駐藏大臣の役割」『アジア史研究』25, 2001を参照。


『東洋史研究』(平成17年 64-2, pp.148-155) に掲載された書評

 『清帝国とチベット問題』は、国際的に知られたチベット問題をその歴史的淵源に遡って考察しようとしたものである。本書は、清朝の最盛期において清朝とチベット・モンゴルとの間に存在したという「ナショナリズムの原型」や多民族からなる「版図統合」の成立から瓦解までをテーマとしている。
 各章の具体的な内容を要約すると、第一章「『中華世界』と清帝国」において、清帝国について従来語られてきた体制論を列挙し、それらを「無効」とし、第二章「清帝国の統合における反華夷思想と文化政策」においては「多民族統合」の論理が形成されたことをのべ、第三章「堯舜に並び超える『皇清の大一統』??その光と陰」においてはその論理が完成したもののすぐに斜陽がはじまったことを、第四章「『自治』論の時代」においては、その結果―清朝宮廷においてチベットの自治を認める議論がおきたことを、第五章「英国認識とチベット認識のあいだ」では、民族の統合が帝国主義諸国の侵攻により瓦解したことを示す。
 本書を一読して気付くことは、テーマとなっている清朝期の「版図統合」なるものが、説明も証明も行われないまま、所与のものとして扱われ、図表化などがなされているということである。学術論文である以上、一次史料の記述を積み上げ、それを帰納ないし演繹した後に、新しい概念の構築なり、図表化なりを行う姿勢が要求されようが、本書においては残念ながらそのような手法はとられていない。証明もされず形もあたえられない「統合」なるものを扱うため、平野氏の論法も至るところでほころびが生じており、たとえば、第一章で「儒学・仏教・イスラームいずれの発想に基づく王権の理念系にも収斂しなかった清帝国のありかたは、決して特定の発想に固執することなき、より高次元の自意識・世界観に支えられたものであった」と断言しているにも拘わらず、その理念なるものを雍正帝の「言説」より抽出しはじめると、途端に「一体何が帝国によって承認され、さらには統合原理として強力に擁護されるのか、あるいは『風俗の乱れ』『淫祠』『邪教』として差別や排斥を受けるのか、それを決定づける基準は実は曖昧であった」(第二章)とトーンダウンしていく。
 つまり、氏は「民族・宗教をこえた民族統合」なるものの証明に客観的にいって成功していないのである。
 さらに、チベット史に関して先行研究との関係について述べると、筆者はかつて、満洲語、チベット語、モンゴル語の一次史料を用いて、満洲・チベット・モンゴルの間にはチベット仏教に基づく共通の価値体系、政治空間が存在していたことを指摘し、それを「チベット仏教世界」という言葉で表現した*1。一方、平野氏は主に第一章の「転輪聖王としての清皇帝」という節中において、チベット・モンゴル世界に対する際の清皇帝の転輪聖王としてのあり方について述べるのであるが、大局的に見れば筆者がチベット仏教世界と称したもとほぼ同じ内容のものをなぞっている。
 筆者と平野氏の相違点を揚げれば、平野氏がこのチベット仏教の上に先述の「多民族統合」というさらに高次の世界を措定していること、仏教に関連する事柄において誤った説明を繰り返していること、皇帝は転輪聖王である以前に、その本質が文殊菩薩であるという点が考慮されていないこと、などがある。
 仏教思想に関する誤りの一例を示せば以下のようである。平野氏は乾隆帝があらゆる文化を共存させる思想を持っていたことを示すために、承徳の普寧寺にたつ乾隆帝御製の碑文の一文を引用し、以下のように解釈する(以下に引用する平野氏の文は()内の文言に至るまで原文のままである)。
 「我は普賢の言を聞き、華藏(中華とチベット)は荘厳の海たり。一つ一つの法界を見ると、現佛が雲の如く集まる。一切は群生を化し、荘厳は此より出る。西土と震旦(漢地)は、究竟のところ同異なし。」
  この文の意味を理解できる人がいたとしたら問題である。なぜなら、この文は

我聞普賢言、華藏荘厳海 是毘盧遮那、往劫修行處。種種寶光明、大雲遍一切 舎身等塵刹、以昔願力住。遍十方國土、出苦向菩提 方便示調伏、世界所有塵。一一見法界、現佛如雲集 此是如来刹、大願周法界。一切化羣生、荘厳従此出 西土及震旦、究竟無同異

という原文の下線部のみを訳しているからである。さらに訓読も間違っており、あまつさえ、肝腎の「華藏」(中華とチベット)という言葉の解釈も誤っている。「華藏荘厳海」は『華厳経』に説かれる毘盧遮那仏の君臨する多元的世界、蓮華蔵世界を指し、「中華とチベット(西藏)」ではないのである。この一文が『華厳経』に基づくことは、ここでは省かれている冒頭の一文「復依普賢世界品而述偈言」の「普賢世界品」が、『華厳経』第一会「菩提場会」中の「普賢三昧品」と「世界成就品」を指すことよりも明かである。
 また、平野氏は清皇帝の転輪聖王としての側面ばかりを強調し、皇帝が同時に文殊菩薩の化身としてもふるまっていたという点に注意をはらわない。しかし、後述するように、清朝皇帝が文殊菩薩の化身であるという思想は、清・チベット関係を考える上で、非常に重要な意味を持つ。氏が転輪聖王と文殊菩薩の関係を整理できなかった理由の一つはチベット仏教圏における王権思想??菩薩思想??に対する理解の浅さが一因となっているものと思われる。それは彼が、ダライラマやパンチェンラマのような、生まれ変わりによってその座を継承する高僧を、チベット世界ではそれに当たる言葉のない「活仏」「霊童」という中国語で表現することよりも明かである。
 「転生する高僧」のことをチベット語ではトゥルク(srpul sku)といい、モンゴル語の直訳ではフビルガン (qubilγan呼必勒罕)という。これは仏教用語の「化身」という言葉にあたり、法身(時間・空間を越えた仏の意識)が現世に示現する存在を指す。仏教において、仏の境地(菩提)とは最高の位であり、この位に至ると輪廻を解脱するため、二度とこの世には生まれ変わらない。一方、この世にあえてとどまり人々を救い続ける存在としては菩薩という存在がある。つまり、チベット仏教世界ではダライラマを観音菩薩の化身といい、乾隆帝を文殊菩薩の化身と尊称することはあっても、「生き仏」を意味するような言葉で表現することはないのである。ダライラマ一世伝の冒頭の言葉を借りれば、彼ら転生僧は「あくまでも月 (仏の境地)の影(化身)」にすぎないのである。
 チベット仏教世界で重視される『般若経』には「菩薩は目的をもって生を取り、自在なる力をもつ転輪聖王の一族に生まれ、命あるものを仏教に導く」という有名な一節がある。この思想に基づきチベット仏教圏では、皇帝や王を菩薩の化身と考えてあがめ奉る。しかるに、チベット仏教圏にとって非常に重要な菩薩思想を平野氏は曖昧にしか理解していないため、転生する高僧たちを活仏といい、転輪聖王としての清皇帝については述べても、文殊菩薩についてはほとんど触れるところはない。さらに清皇帝を「文殊菩薩の化身した転輪聖王」という意味で菩薩王と呼ぶならまだしも、「菩提王」などと表現する。仏の境地を著す菩提(bodhi)を王に冠して何を表現しようとしているのか説明が必要であろう。
 清朝とチベットの関係は氏も認めているようにチベット仏教を媒介としてなりたっていた。その仏教に対する理解が浅いままで「チベット問題」を論じることはいかにも危ういことといえよう。この問題についてはさらに後述する。
 以上は第一章からの具体例であるが、その他の章についても従来の研究をなぞったものが目についた。たとえば、第三章においては「皇清の大一統」に内在された危機が縷々述べられるものの、満洲人の固有文化(武)が廃れ、また官僚・軍人が腐敗したこと、康煕・雍正・乾隆というバランス感覚にすぐれた皇帝でなければ清帝国の安定は維持できなかったなどの指摘は、内藤湖南の『清朝衰亡論』あるいは宮崎市定『雍正帝』の論をほとんど出るところはない。
 また、平野氏の史料操作のあり方にも問題が見受けられた。平野氏が文末に挙げた引用文献を見ると、漢文史料ばかりであり、モンゴル語、満洲語、チベット語で記された史料が一つとして揚げられていないことに気付く。チベット・モンゴルと清朝の統合なるものを説く本書の中に当該民族であるモンゴル人、チベット人、満洲人の言説がまったく登場しないことは本書の大きな問題点と言えよう。
 清朝と他民族との歴史を検証する際に、漢文史料だけを用いることが、いかに危険であるかはよく知られている。
 満洲人は朝鮮人、中国人、モンゴル人が混在する遼東平野を故郷とし、これら歴史ある三民族にもまれながら国家を形成した。そのため初期の頃より異文化に対して敬意を表することに屈託なく、その摂取についても柔軟であった。これは、中華思想に基づいて異文化を蔑視し、外交に際して無用の軋轢を生じる漢人の外交術とは好対照をなす。満洲人は国家を拡大させていく過程で、多くの異文化と接したが、その際、自分がその時々に向かい合う民族の論理に合わせて自らの姿を演出した。つまり、清朝皇帝に関して言えば、儒教官僚を前にしては中華皇帝、チベットやモンゴルの高僧達の前では文殊菩薩転輪聖王、満洲人たちの前では満洲ハンとして君臨したのである*2。マルチリンガルな国際人が向きあう集団の構成内容によって使用する言語を本能的に使い分けるように、清朝皇帝は相手に合わせて言語やコード大系の内容を自在にスイッチすることにより、他民族との円滑な交流を図った。その結果、清朝皇帝を始めとする満洲人支配層は、モンゴル語、満洲語、漢語、チベット語を理解し、中国文化人であると同時に、チベット仏教徒であり、狩猟に秀でた満洲武人であるという複数のペルソナを有するようになった。満洲人の異文化順応力、及び、外交能力の高さを示す一例として雍正帝の17子であり、雍正13年(1735)にダライラマ七世のもとへ奉使した果親王の例を挙げてみよう。
 1735年、果親王は雍正帝の命を受けて、北京からダライラマ七世の滞在する東チベットのガルタル(mgar thar)に向かった。この奉使旅行の途上、親王は漢人居住域を通過する際には名所旧跡で漢詩を読み、揮毫し、書画を書くなど中国文化人として振る舞い、中国文化圏を離脱してチベット文化圏に入りダライラマ七世のもとに至ると、ダライラマより低い座席について法を授かるというチベット仏教徒の姿になった。漢文文献だけを用いて果親王を検証すれば、中国文化人以外の何者にも見えないが、モンゴル語やチベット語の史料から描き出される彼の人間像は敬虔なチベット仏教徒である*3。以上の事実について、果親王が二つの文化圏を往来し、どの世界においても完璧なエリートぶりを発揮したと結論することはできても、この二つの文化圏をより高次に統合する理念をもって外交していたとも、チベット仏教文化圏を中国文化圏が版図統合していたとも結論づけることはできないであろう。また、漢文史料だけを用いて果親王を見る人は、果親王が漢詩や日記の中で中国人を「華人」、チベット僧を「蕃僧」と表現するのをみて、彼を中華思想の持ち主と速断するかもしれない。一方、モンゴル語、チベット語史料から彼を見るものは、敬虔なチベット仏教徒として彼を位置づけよう。一つの言語、特に中華思想の影響を受けやすい漢文史料だけを用いると現実がどれだけ偏ってみえてくるかが、この一例をもってしても理解できよう。
 つまり、清朝の支配層が漢文で発したアナウンスは、そもそも漢人を対象にしたもので、そこで語られている内容も漢人が理解できる思想、??それが他民族について言及するような場合は当然、中国を中心とし関係するすべての他民族を周辺・目下におき、その関係の実態の如何にかかわらず、中外一体と主張する中華思想??が要素として混入してくることは、ある意味当然なのである。この満洲版の大同思想の存在が、モンゴルやチベット地域における「実効的な版図統合」の存在の証明にならないことは言うまでもない。なぜなら、満洲皇帝はチベットやモンゴルに対してアナウンスを行う場合にはまったく違う世界観に基づいていたからである。
 ここで、本書が乾隆帝の転輪聖王としての位相にばかり目を奪われ、その本質が文殊菩薩であることを軽視している、という点を思い出してもらいたい。文殊菩薩は、チベット仏教のパンテオンにおいて仏の智慧の化身として崇拝され、同じく仏の慈悲の化身である観音菩薩、仏の力の化身である金剛手菩薩とともに、三部の守護尊(rigs gsum mgon po)と信仰される。これらの三菩薩の間には何らの上下関係も中央・周辺の関係も存在しない。そしてこの三菩薩は、17世紀に入ると、文殊菩薩は中国の守護尊として、観音菩薩はチベットの守護尊として、金剛手菩薩はモンゴルの守護尊として、チベット仏教に基づく三民族の統合を象徴するものとなった。したがって、乾隆帝が満洲・チベット・モンゴル三民族に対して、自らを文殊菩薩の化身としてプレゼンテーションすることは、観音菩薩の化身であるダライラマ、金剛手菩薩の化身であるモンゴル王侯と、同じ仏教を護持しつつ共存する姿勢を示したものに他ならない*4。この世界観が漢文文献に現れる、中国を中央に、チベット・モンゴルを外においた上で、中外一体をとく世界観と、まったく共存しえないことは明かであろう。
 このように、満洲皇帝は対する民族が変わるたびに、相手の世界観に合わせた関係を結んでいたため、客観的にいって、これらの民族の上に「版図統合」や現在の中国にもつながる「ナショナリズム」の原型のようなものが存在した可能性は非常に低いのである。
 平野氏は「清帝国のチベットに対する権力関係を小さく見ようとする発想は、欧州人の主権国家的な視点から当時の歴史的関係を解釈するものである・・・支配されたチベットを非歴史的に救い出そうとする一面的なものである」と切って捨てる。しかし、平野氏が版図統合の実態を証明していない以上、「清帝国のチベットに対する権力関係を大きく見ようとする発想は、漢文史料の影響を受けた人が中華思想的な視点から当時の歴史的関係を解釈するものである・・・支配されたチベットを非歴史的に正当化しようとする一面的なものである」と返されても仕方ない状況である。
 平野氏の引用史料に関しては、漢文のみであるという問題点以外に、二次的な史料ばかりを用い一次史料を用いていないという問題点もある。平野氏が本書の中でしばしば引用する『皇朝経世文編』や『大清十朝聖訓』などは、一次史料ではなく編纂史料であるため、学術研究に用いるに適当な史料とは言い難い。たとえば『大清十朝聖訓』は、歴代清朝皇帝の諭旨を集めて編纂したものであるが、この書に編纂される過程で皇帝の言葉はその発言がなされた時代状況からも、聴衆からも切り離されてしまう。これでは当該発言の史料批判を行うことができず、したがって歴史的意義を断ずることも不可能である。『毛沢東語録』を用いて現代中国史が研究できないのと同じ理屈である。
 ある皇帝の諭旨の歴史的意義を特定するに際しては、どのような事件を契機にしてその諭旨が発され、その諭旨を受けてどのような議論がなされ、それがいかなる形で現実に施行され(あるいは、されず)、そしていかなる形で対象となったものに影響を与え (または与えなかっ) たのか、最低でもこれらのことを検討することが必要であろう。むろん、このような綿密な検証を行うためには、出版されている史料だけでは限界があり、現地の档案館に赴き一次史料の調査を行わねばならない場合もある。チベット、モンゴル、新疆、満洲史の研究者たちは、みなこうして一次史料に基づいて史料批判を行いつつ、事例研究を積み上げる努力を行ってきた。平野氏が「外部に強制力を伴った」実効的な「多民族統合」なるものを主張するのであれば、統合の当事者である民族の言語??漢文のみならず、満洲語やチベット語やモンゴル語??の、それも一次史料を批判的に用いてその存在を証明することが要求されよう。
 厳密に言えば、平野氏はチベット語や満洲語で書かれた史料も少数ながら用いている。ただし、氏の用いた史料は現代中国において漢訳されたものであり、原文史料に基づくものではない。これらの漢訳史料は誤訳・省略・改変が多数あることで知られている。たとえば、第一章の非常に重要な場面において平野氏が引用する、漢訳パンチェンラマ伝に基づく一文をとりあげてみよう。
 パンチェンラマの発言?十方に安居し、広大無辺の世界の中で無量の軍隊を擁する、仏法を崇信し十力を具有する尊勝王天子文殊大皇帝は、(パンチェンから)報身を円満して成仏した。各地の仏法と衆生を絶え間なく精進させる依他の国王は、釈迦王の子の聖教を大地に遍く伝え、それを円満に栄えさせ、仏光が普く照らすようにし、一切の無明を除き、供施双方の一切のしもべを幸福と安楽に導いた。仏法の聖地インド、文殊菩薩の教化の地摩訶支那、雪域、蒙古の大地で、成就王は衆生のあいだに政教の事業を発展させ、安居楽業させる。このような殊勝の業績は述べきれない。とりわけ一切の勝者の中の代表で至尊堅固にして転輪する尊勝王大皇帝は、実に天下地上の一切の衆生の頂点にある。第二佛祖ツォンカパの清浄な教理は四海大地に広く弘揚され、その偉大な事跡は叙述しようがない。このとき、漢・モンゴル・チベット人民全体は、慈悲の加護によって偉大な事業を頂点に向かわせ、それはとりわけ雪域の持金剛ダライラマと僧俗民衆の信仰希求と一致し、慈悲によって教を護り民を祐するものである。
 乾隆帝の発言??パンチェンエルデニは実に仏であり、今日説くところは全て実情である。朕は法により政治を行い、宮殿や釈教の佳境には如来身語意の三所依を建立して倶奉し、僧寺を建立して供養し、仏教を弘揚し、慈悲を以て庶民を護祐し、威力を備えた軍隊で教を信じない粗暴な士夫を消滅し、仏教の門に赴かせ、信奉させたのだ。

 以上の平野氏の和訳を見ると、原文のチベット語を参照せずとも「摩訶支那・漢、蒙古・モンゴル、雪域・チベットと同じ対象を指す言葉を漢・カタカナと二通りに訳していることに意味があるのか」、「"依他の国王"、"(パンチェンから)報身を円満して成仏した"などは、仏教用語としても現代語としても意味が不明である」などの数々の疑問点が指摘されるであろう。また、"身語意の三所依"とは、現代日本語において何を意味するかは不明であるが、これは具体的に仏像・仏典・仏塔を指している。この言葉に限らず引用文章内には、チベット仏教になじみのない読者のために注釈をつけるべき箇所が多く見られる。さらに、この文章を原文からの和訳と対象させると*5、氏の文章からは原文の文章が数多く抜け落ちていること、単語が数々誤訳されていること、主語述語の係り結びが全く異なっていること、特に王権にかかわる重要な概念である「文殊菩薩が転輪聖王に化身する」「乾隆帝がインドやチベットで数々の転生を行ってきた」というテーマが全く訳されていないことなどに気付く。この比較だけをみても、漢訳史料を用いることの危険さは十分に理解できることと思う。
 以上、平野氏の著作の問題点についてさまざまな角度から見てきたが、むろん学ばせられる点もあることを付け加えておきたい。彼の主張する「版図統合」が崩れ、チベットに「自治」を認める議論が始まったという、近現代史を扱う第四章と第五章において、これまでは明らかにされていなかった清廷におけるチベットとの関係のありたかをめぐる諸議論に一次史料に基づいて光をあてている。これらは非常に興味深く、とくに、第五章において、清朝のエリートたちが、当時の帝国主義全盛の国際環境の中で、自らも帝国化の道を選ばねばならないような時期にたち至っても、やはりチベットに対してはある種の宗教的な遠慮といえるものが存在していたことを、一次史料に基づいて明らかにしたことは評価すべきものと思われる。
 清朝とチベットの関係は、いまだその全貌が明らかになっているとはいい難い状況である。しかし、清代には比較的良好であった清朝とチベットの関係が清末に至って破綻し、現在においては世界的に有名な民族問題の一つになっているという一事は、両者の関係が清朝末を境に、実体的かつ本質的に大きく変動していたことを暗示していよう。このことを考え合わせても、清朝期に関係するすべての民族から見て客観的に存在する「版図統合」や現代中国「ナショナリズムの原型」といったものが存在していたことが証明される可能性は極めて低いと思われる。 氏は無効とするものの、対する民族のいかんによって自在にその姿を変える満洲王朝の多面性こそが、清王朝の本質であることは、歴史学者の中ではほぼ共通認識となりつつある。特定の民族の視点によって、清とその影響下にあった民族の全体像を説明しようとすれば、それはあくまでもその"特定の民族から見た世界"の説明でしかありえず、それを全体認識であると主張すればその瞬間に不当周延の誤謬をおかすこととなる。清朝期における民族問題を語る際には、それがどの範囲の民族に対して有効であり、また、どの時期にまで有効であったかなどを常に明示し、定義していくことが必要とされよう。むろん、その先には実体的な関係の究明が行われることがのぞましい。このようにしてこそ、建設的かつ客観的な清朝と民族間の研究は進展すると思われるからである。
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*1 石濱裕美子『チベット仏教世界の歴史的研究』(東方書店2001)。ちなみに、索引で筆者の名前を検索してみると、石濱由美子と誤記されており、68ページと記されている。一方本文を見ると、68ページ以外にも筆者の名前はいくつか引用されているため、索引の不備が懸念される。ちなみに、本文中に引用された筆者の名前は誤記と正記が混在しており、誤記の方が圧倒的に多い。
*2 清朝皇帝がもつ複数のペルソナについては、Mark Elliott, The Manchu Way (Stanford University Press, 2001)、岡洋樹「東北アジア地域史と清朝の帝国統治(特集 2003年歴史学の焦点)」『歴史評論』642, 2003.10, pp50-59、片岡一忠「朝賀規定からみた清朝と外藩・朝貢国の関係」『駒沢史学』52, 1998, pp240-263、石橋崇雄「清初皇帝権の形成過程――特に「丙子年4月<秘録>登ハン大位档」にみえる太宗ホン・タイジの皇帝即位記事を中心として」『東洋史研究』53(1), 1994.6 pp98-135等を参照。特に、チベット向きのペルソナについては筆者前掲書が詳しい。
*3 チベット語・モンゴル語文献に基づく果親王像については、Vladimir L. Uspensky, Prince Yunli (1697-1738) Manchu Statesman and Tibetan Buddhist. Institute for the study of Languages and Culures of Asia and Africa, Tokyo, 1997を、漢文献に基づく果親王像については石濱裕美子「果親王の書」『内陸アジア史研究』20号, 2005, pp.83-92を参照。
*4 文殊菩薩としての乾隆皇帝については、拙論"Study on the Qianlong as Cakravartin, a Manifestation of Bodhisattva Manju?r?, Tangka"『早稲田大学モンゴル研究所紀要』(2, 2005, in print)を参照
*5 1994年に発表した拙著に、同じ部分についてのチベット語原文からの和訳が掲載されている(石濱裕美子『チベット仏教世界の歴史的研究』pp.342-346)。


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