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ダライラマ法王秘話 ④

ダライラマの初写真


Portrate of Dalailama


 ダライラマの写真がはじめて撮影されたのはいつの日かご存じだろうか。

実は不敬であるということから、かつてはダライラマを撮影することは禁じられていた。ダライラマは普段はポタラ宮の奥深くにいるため人前に姿を見せることはない。一般人は正月などの大きな祭りがある際に御簾の向こうの影や神輿の中にいる姿を望見することがせいぜいで、それも恐れ入って合掌して下を向いてしまうので、ほとんどの人はダライラマの顔を知らなかった。

それではどのような経緯でダライラマの初写真が撮られることとなったのであろうか。

 私はここ数年1904年から1912年にかけて行われたダライラマ13世のグランド・ツァー(ラサ→モンゴル→ 青海 → 五台山 → 北京 → 青海→ ダージリン→ラサ)のもろもろを調べているが、ダライラマがチベットから国外に出たことを聞くと、各国の外交官、旅行家、探検家などがダライラマを一目みようと殺到した。彼らの記録をみると、いずれも『ダライラマの写真を撮りた』がっていたが、その希望が叶うことはなかった。

 ダライラマ13世は1904年と1905年の二冬をモンゴルで過ごし、ロシアから殺到するブリヤート人巡礼から供養を受けた。この間、ロシア地理学協会を代表してあの有名な探検家のコズロフ、仏教学者のシツェルバツキーなどが1905年の5月にダライラマ13世を公式訪問している。彼らはロシア皇帝ニコライ二世にダライラマ13世の姿を伝えるべく、コブジェニコフ(ロシア地理学協会キャフタ支部のスタッフ)にダライラマの肖像画を描かせた。この法廷画家が描いたような微妙な肖像画は、あの高くて有名なBrill の 『亡命中のダライラマ13世』Dalai Lama on the Runの表紙や、2019年出版の拙著『チベット仏教世界の再生』The Resurgene of Tibetan Buddhist Worldの口絵にも用いられているので結構有名である(なにげに宣伝)。

 2018年9月、キャフタ条約で有名な、国境の町キャフタ(ブリヤート共和国)の郷土史博物館を訪問した時、この同じコブジェニコフがかいた別バージョンのダライラマ13世の肖像画を目にした。この郷土史博物館は館員たちが「シベリアのエルミタージュ」と自称するだけのことはあり、かつて貿易で栄えた時の余光が感じられる存在感のある博物館である。私たちがこの博物館についた時、バトサイハン先生がすぐに1階のホールに我々を導き、何かと思えばそこには、おそらくは私のために準備されていたと思われる(ダライラマに興味のある私だけだから笑)ダライラマ13世の肖像画があった。館員さんの話によるとコブジェニコフはニコライ二世に献上した絵以外にダライラマ13世の肖像を書くことは禁止されていたが、あまりにも多くの人が「ダライラマ13世の絵を欲しい」といったので、記憶を再生してさらに2枚の肖像画を描いた。うち一つがこれであるという。 ついでにいえば郷土史博物館はもと学校の建物を再利用しているが、その設計を行ったのもコブジェニコフだという。

 ダライラマ13世はロシアの支援が得られないことが確定した1906年にモンゴルを出て青海に向かって南下するが、その際 [ダライラマ13世を勝手に] エスコートした李廷玉の日記が残っており、その中で「ダライラマ13世にカメラを向けたら、火がついたように慌ただしく座をたって出て行ってしまった(ゲラゲラ)」と揶揄している。

 このあとダライラマ13世は1908年青海から五台山に向かうが、ここではマンネルヘイム(フィンランド人であるが当時はロシア帝国のために任務遂行中)がダライラマ13世と謁見しており、やはり写真をとろうとして失敗している。

 ダライラマを撮影するという禁忌が破れたのは、実にダライラマ13世が国をでてから五年たった、1909年に中国軍のラサ侵攻を逃れて英領ダージリンに逃れた1910年以後のことである。

 ダライラマ13世がダージリンに滞在している間、シッキムの行政官チャールズ・ベルと親交を結んだことは有名であるが、ベルの記した『ダライラマの肖像』(Portlait of Dalai Lama ) によると、「ダライラマがダージリンについて五ヶ月ほどたった時、法座に座って正装したダライラマの写真を撮影した」これは、「チベット式に座すダライラマ13世の初写真である」と記している。

 ベルによるとダライラマはその写真を焼きましさせ、各僧院や謁見した人々などに頒布し、人々はその写真を仏壇に仏画や仏像とともに祀り始めたという。ダライラマがベルに与えた肖像写真には、彼のサインと「仏の命により~」で始まる朱印が押してあったという。
 この朱印は疑いなくその数ヶ月前、ダライラマ13世が中国皇帝の権威を否定し、新しく名乗った称号を刻んだものであろう。

その称号とは
「聖地(インド)からの仏のお言葉[命令]。勝者王・三世間の依怙尊・すべての時において地上のすべての仏教を司るもの。一切智者・不変・持金剛仏・ダライラマ・神と人すべてが頭上に供養する如意宝珠の王の御璽」(とにかく長い笑)である。この称号では自らの権威の源泉をインドの仏に帰しており、中国皇帝の権威を一切否定している(そのため、印面からは漢字と満洲文字も省いてある)。

 ダライラマ13世が中国と決別した直後、写真撮影に応じるようになった背景には、ダライラマに近代国家の君主をめざそうとする意志が芽生え初めていたからかもしれない。以後、ダライラマ13世の写真は様々な形で撮影されることとなった。

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