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ダライラマ法王秘話 ③

ダライラマの手紙


ダライラマの手紙


 昨年出版された『アジャ・リンポチェ回想録』には、リンポチェが1998年のアメリカ亡命に至るまでの苦難の半生が綴られている。リンポチェは亡命前は中国仏教協会の副会長であり、外交パスポートも携帯する高位の役人であったため、その証言内容は共産党のチベット仏教界に対するしめつけの数々を具体的に明らかにし一級の歴史資料となっている。

 彼が高級官僚の地位を捨てて亡命した理由は、本人の弁によると、幼少の頃に父を殺されたことに始まり、様々なものがつみあがった結果であるが、直接の原因は中国政府が擁立したパンチェンラマ11世を強制的に承認させられ、その教師になれと命令されたことにある。

 リンポチェは我慢できずに中国と国交のなかったグアテマラにまず逃れた。しかし、ノープランだったので途方にくれていると、華僑の弟子クリスティーンさんが、「ダライラマ14世に手紙を書いてくださったら、私がダラムサラまでもっていきます」というので、リンポチェ、ナイスアィディア! と手紙を書くこととした。

 以下、回想録の記述を見てみよう。

 法王に送る手紙というのは非常にフォーマルな文書だ。統一規格の大判チベット紙を使って、さら24折りに折って、16折り目から本文を書き始めなければならない。上の空白の部分は、法王の崇高な地位を尊敬することを表している。
しかも必ずとがった竹ペン。つまりチベット筆に墨汁をつけてかかなければならない。そうやって初めて一文字一文字がきちんとそろってきれいに見える。それが伝統的なダライ・ラマ尊者への手紙の様式である。

 しかし、リンポチェはグアテマラにいてチベット紙も筆も入手できなかったため、黄色い原稿用紙に練りに練った文章を書いて送った。この書簡はダライラマ14世の手許に届き、リンポチェは無事文字通りニューヨークにいく切符を手に入れることができた。

 ダライラマ14世はリンポチェが書簡の中にかいた

「私たちは文化大革命と『宗教改革』を口実にしっかり修行せず、その結果私たちの来世を害している」

という言葉に特に感銘を受けて周りにもその件をみせた。リンポチェが中国の高級官僚になっても中国風の考え方に染まらず、仏教に対する誠実な思いが溢れていたことに感動したのだと思う。

 気さくなダライラマ14世はインドに亡命してからは儀式ばった拝礼を「あー、しなくていいから、いいから」と廃していたものの、アジャ・リンポチェの回想録には、昔ながらのダライラマへの正式な礼を記してくれているので個人的には面白かった。たとえばこの手紙の書き方以外にもダライラマ法王と面会する際には俗人も僧侶も正装すること、五体投地をすること、俗人が弁髪をもっている場合はそれをほどいて帰依を示すこと、などである。

 ここで私はふと、パソコンの中にダライラマ13世が大谷光瑞にだした書簡のpdfがあったことを思い出し、リンポチェがのべたような書式で書いているかどうか確かめてみようと思った。

 草稿のpdfをA3用紙に打ち出して余白をきりとって、まず半分に折ってみた。おお、真ん中の行の上に折り目がくる。次に、それを半分、さらに半分とおっていくと最後が三分割になったのでぐりぐり三分割に折り目をつけて開いて数えると、やったー! 24折りになっている。アジャ・リンポチェのおっしゃった通りである。

 そして、「小生(gus pa)」から始まる本文が何行目からはじまるか数えると(wkwk)、やったー下から16折り目からである。チベット側は大谷光瑞に敬意を表して書簡を書いていることが確認できた。

 以上、現場からお伝えしました。 

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