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☆二〇〇〇一年ラサの旅(その一)☆

チベットのラサの旅


目 次

  1. あるオリエンタリストの肖像
  2. あるオリエンタリストの変節

2001年3月、ポタラ宮についての論文を書くためラサに滞在した折の記録。一般の方は旅行記として研究者の方は研究者と研究対象のあり方についての哲学的考察?の記録と思って読んでみて。


ポタラ階段

観音降臨
山に


あるオリエンタリストの肖像

 私は年来、ダライラマ五世とその摂政サンゲギャムツォの時代を研究してきた。この二人の時代はポタラ宮の存在によって象徴されるチベットの黄金時代であり、ダライラマの権威はモンゴルや中国に及んでおり、それはもう下手な歴史小説読むよりも、おもしろおかしい時代である。ダライラマ五世は言うまでもなく分裂していたチベットをゲルク派支配のもとにまとめあげた大偉人であり、その摂政サンゲギャムツォは大政治家であるとともに、大学者として知られ、現在みるチベットの歴史・建築学・医学・音楽などの諸学の規範は彼の手によって打ち立てられたものである。
 今回の旅の主要な目的は、まず、(1)この摂政サンゲギャムツォの手になるポタラ宮の主要部分赤宮の構造から、彼の政治的・学問的コンセプトを読み取ること、それと同時に(2)チベット文の本の購入(3)研究者との交流(4)資料用のスライド作成等の学者の日常業務をこなすことも予定していた。

 サンゲギャムツォ自身の手になる『閻浮提の一つの飾り』(ポタラ宮の造営目録の美称)の構造についての記述とポタラ宮の研究書などから、わたしはサンゲギャムツォがこの宮の造営において、生きたダライラマを本尊とする立体マンダラを作らんと意図していたことを確信していた。今回の旅では文章や平面図からは読み取るこのできない、現場からの情報を得ることが楽しみであった。実際サンゲギャムツォの構成した空間にたてば、四百年の時をこえてサンゲギャムツォの思考とシンクロし、ひょっとしたらものすごいひらめきが生まれるかもしれない。私の期待は出発日の接近とともに無節操にふくらんでいく。

 コンガ空港に舞い降りたわたくしは何とはなしに息苦しさを感じた。それはそう、ここは3500mの高地。空気は平地の二分の一である。「自重・自重」と唱えつつ一時間半かけて市内へ。初日の午後は高地馴化に使うのはチベット滞在の鉄則である。午後はゆっくり床につく。しかし、今回は何かいつもと違う。息苦しいだけではなく、高熱がでる前の悪寒・寒気が絶え間なく全身を襲うのである。最初は宿がケチでヒーターいれていないせいかと思ったが(本当に入ってない。朝はマイナス八度なのに)、寝袋に入ってホカロンをつかってもまだふるえがくる。それにただ床について身動きもしていないのに心臓は全力疾走した直後のように動悸をうっている。眠るどころではない。食欲もなくその夜はお粥すら満足にたべられなかった。

 その晩の苦しさは想像を絶するもので、体は悪寒のぼせが交互にきて、寝ているんだか起きているんだか分からない意識状態でとにかくうなされる。今までの人生で自分が味わってきた不安挫折怒り自己嫌悪などのありとあらゆる瞬間が一秒の間に三十コマくらいでフラッシュバックするといったら、このつらさ苦しさが少しは分かってもらえるであろうか。末期癌の母がなくなる直前、衰弱状態のきわまった夢幻状態の中でいろいろな不安なヴィジョンを見て苦しんでいたが、まさにその末期の苦しみを追体験するかのような悪夢の一夜であった。人は睡眠中は副交感神経が、覚醒中は交感神経が働くが、その交代が高地故にうまくいかず、識域化に抑圧していたヴィジョンが放たれ、死に瀕した病人の意識が上から順番にとけて識域下が露出していく過程で見るような不安なヴィジョンを体験したものと思われる。


 翌朝はものすごい頭痛。そりゃそうだ、寝ていないから。足はナマリのように重い。しかし、タクツァンリンポチェのオフィスからガイドのおねえちゃんがくるので起きねばならない。ポタラ宮は午前中しかあかないのだ。車でポタラの頂まであがろうとすると、どういうわけか今日は十時からということで、あと十五分待たないと門が開かないという。タクシーを返してしまったので十五分後には自らの足でポタラ宮の門まで歩かされることに。苦しい。とにかく苦しい。平地でもつらい坂をここチベットで昇るのだからそもそもまずいのだ。やっと赤宮の端にたどりついた私は、もはやサンゲギャムツォもダライラマ五世もどうでもいいというところまで、肉体も精神も追いつめられていた。それにカメラのフラッシュがジャストタイムで壊れおった。高地で電池が凍ったかと思ったが、後に電池をかえても無反応であったので、ただ壊れたことが判明。K嬢の「先生かんばってください」の声も空しく、私は「今日はもうやめやめ」と英断をくだした。

 午後はホテルで寝込む。夕食時。空をみあげると満月がこうこうと空にかかっていた。「明日はいよいよムンラム(新年最初の満月の晩に行われるチベット最大の祭り。命あるものの幸せと仏教の興隆を祈る儀式。写真はトゥルナン寺のお供え)かあ」。

 翌日。バッファリンのお陰で多少は眠れたので調子は上向き(相変わらずすごいうなされるけど)。ポタラに昇る気力はまだでないので、書店をまわって本を購入、その後、ポタラ裏の池中にある龍王宮を拝観。この宮もサンゲギャムツォの息のかかった建物でニンマ派色の強いあやしい壁画にいろどられたキョーレツなお堂である。ニンマ派は古い修行形式を残すと言われるチベット密教の一派で、その力によってチベットの神々をして仏教を護らせている。この宗派はつまりは神々の力によって現世を平和にする力があるのだ。ダライラマ政権の骨子とする観念的な空の哲学は出世間を統治できても、常時起こりうる俗的な反対勢力には対処できない。そのために、ダライラマ五世とサンゲギャムツォはニンマ派の法に傾倒し、その力によってチベットを俗的レヴェルで安定させようとしたのである。権力者の光と影ですな。K嬢はグルカ戦争の研究者であるため、この龍王宮の前にあるはずのグルカ戦碑を捜すが、ない。龍王堂の坊さんの話によると、ポタラの前に移動したという。行ってみると確かにポタラ宮の真ん前にジュンガル碑文とグルカ碑文が仲良く東屋に収められていた。双眼鏡さえあれば読める保存状況である。この時代の碑文はチベット満洲モンゴル漢文の四体字で書かれており、通常は漢文のものしか通行していないので、残る三体字が我々の興味の対象となる。

(←ジョーシャカムニ)

 碑文を観察していると、トゥルナン寺で七時から始まるムンラムの時間が迫っていた。あわててタクシーに乗ってトゥルナンに向かうと寺の門は開放され、巡礼が次々と寺内に流れ込んでいく。入り口のところでカター(供養に使うスカーフ状の白絹)を一元で購入してわたしたちも寺内へ入る。シャカムニの前には供養の列ができており、わりこみが沢山あるためちっとも進まない。フィルムをとりにホテルに戻ったK嬢を待つ意味もあるため、わたしは列の順番は遵守していた。一時間以上も並んだところで、やっとシャカムニの前にでてきた。このシャカムニは七世紀に唐の文成公主がチベット王ソンツェンガムポに嫁入りした際に唐土からもたらされたものであり、ラサの町はこのシャカムニを中心に展開している。この地はチベットを覆う羅刹女の心臓の上であるため、シャカムニはチベット全体を鎮撫し守護する機能もあるのである。シャカムニの礼拝をすませたが、K嬢はまだ姿を現さない。はぐれた時に待ち合わせをしようと言っていた中庭にも彼女はいない。もう黄昏時で立っている人の顔も見えなくないため、そこは旅の恥はかきすて、K嬢の名前を日本語で呼びながら境内を経巡った。そのうちふとポケットに手を入れてみて衝撃を受けた。


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