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チベット学者、テロに怯えるアメリカを横断する


三月四日
 雨女、冬になったら雪女。いきなり、出発の朝は雪である。しかし国際線は勤勉なので飛ぶ。空港で手にしたバッタチケットには、このような但し書きが。「テロ対策のため、お客様の荷物を解錠することがあります。その際に生じた破損の補償は負いかねます」。なにこれ。勝手に人の荷物開けてこわしておいて、その損害はこっち持ち? なにこれ。

 不可解に思いつつも、チェックインをしようとすると、昭和音楽大学とやらのニューヨークミュージカル研修なる団体とぶつかり、えんえんと待たされ、あげくスレイブ席をあてがわれる。この女子大生集団をひきいているJTBの連中はまったくわれわれ一般人の迷惑を考えておらず、すべてのカウンターを自分たちの集団で占拠させており、かつ、わたしの後の個人旅行者が一度セキュリティゾーンの外にでて自分の荷物の側に再入場できなくて困ってそのJTBの職員に「荷物をとってもらえますか」と頼んでいるのに、「テロ対策の規則で他人の荷物はさわれませんから」と四人もいて一人も彼の言うことをきかない。自分の客以外のためには指一本動かさないのだ。仕方ないので、かよわい私が彼の荷物をとって表にだしてやる。

 目の前の女子大生の集団も集団である。何日滞在するかしらんがこんな体よりも大きなトランクもってちゃらちゃらしたカッコして何がミュージカル研修だっつの。今まで私が訪れた国々はみなバックパーカーであり服装もラフで自立した好感のもてる連中ばかりだった。それがアメリカ線と来た日には、オーランドのディズニーランドで新婚旅行のカップルとか、ビジネスマンとか、たえがたい人種ばかり。新婚に遠回しに「ディズニーランドなんて日本にもあるのに、どうしてアメリカに行くの?」と聞いたら、「アメリカのディズニーランドは日本の五倍あるんですよ」との答え。だからどうしたんだ。ねずみが五倍増殖しているだけじゃないか。

 スレイブ席で十一時間飛んでダラスにつく。空港の入管はガイコクジンだけ異常にきびしく両手の指紋に顔写真までとられる不快テロリストを養成しているのはアメリカであってガイコクジンではない。私の個人情報がこんなルートやあんなルートで流れて、陰謀に巻き込まれてとか過剰な妄想から気分が悪くなる。

 空港からホテルまでのタクシーの運ちゃんはエジプト人でおしゃべり。わたしが学術調査のために日本から来たというと、すごい昔にモンゴロイドが世界中に散ったという話をする。さすがエジプト人、昔の話が好きである。

 ホテルはビジネスホテルで、サービスは激ワル。アメリカはVerezonのプリペイドカードで国際電話をかけると安いのだが、使い方がわからなくて聞いても、全然親身なって教えてくんない。さらにネットのポートがあるのでネットに接続しようとしたら一日12ドルを請求される。接続をやめる。ホテルのカードキーは日本と同じく紙サックに入ってくるが、これをひっくり返すと、こんな内容の英文但し書きが。「全米ホテル連盟規則 スタッフを名乗って誰かがあなたの部屋を訪れた場合、フロントに電話をしてその旨を確認してください。確認せずにドアをあけてあなたに何らかの損害が生じても責任を負いかねます」からはじまる自己責任条項の羅列。なにこれ。なにこれ。

 ホテルには、アイロンとかまであるが、スリッパ、歯磨きといった使い捨て商品がいっさいない。歯磨きはもってきているが、スリッパがないのでふべん。とにかく疲れて体調が悪い。日本ではゆるめの靴がなんかきついと思ったら足がむくんでいる。AAのスレイブ席のせいである。エコノミー症候群で明日は死んでいるかも知れない。

三月五日
 今日は日曜日のようだがじつはまだ土曜日である。時差にまったく体も頭もついていっておらず、はだあれも極限状態である。知っている人がいないのが唯一の救いである。四時から目が覚めて眠れないので、仕事をしたり、寝直したりしていたら八時。タクシーをつかまえて美術館に行くとなんと十一時からというではないか(そういえば確認していなかった)。ガードマンの人が二時間後にこいというが、ダラスはビジネスタウンでカフェテリア一つあいてない。どないせーちゅんじゃ。しかたないのでJFKミュージアムのシックスフロアで時間をつぶすこととする。タクシーがいないので、仕方ないので三十分歩く。日曜のダラスのダウンタウンはゴーストタウンであり、鳥とイタチの天国である。市電にぶつかったが乗り方がわからないので三十分歩いていく。途中ウエストエンドでやさしそうな黒人のおじさんが切符の買い方を教えてくれたがその時は目的地は目の前であった・・・・。

 件のシックスフロア(左写真)は、オズワルドがJFKを狙撃したといわれる教科書倉庫の六階をそのまま1989年に博物館にしたものである。なぜかまたデイバックの荷物検査がある。館内にはJFKがダラス入りして暗殺されるまでの記録と、彼の死にまつわる様々な陰謀を説明する映像とパネルで構成されている。JFKはじつは任期中何にも形になることをしていなかったが、彼が大統領を続けていたらアメリカはいい国になっただろうな、という雰囲気だけで惜しまれているみたい。完結しない神話だから伝説になったということ。JFKの死を世界中が悲しんだという映像に、日本で仏式の葬儀が行われたことが紹介されていたが、そこの花輪の中に堤康次郎の名前が読み取れたのには笑った。それから市電に二駅のってあとは歩いてダラス美術館に戻る。

 ジャストタイムで入場し、朝世話になった黒人の警備員と挨拶して、それから絵にとりついてイコンの名前をかきうつす。朝一でよかった、帰る時は人がいっぱい来ていた。美術館のおされなカフェテリアでスープとジュースで遅い昼食をとる。そいで、疲れたのでホテルに帰って寝る。

三月六日
 午前四時に目が覚めて、寝直したら十時である。いつのまにか目覚ましをとめてぃた。あわててパッキンして空港に向かう。ちなみにチェックアウトで宿泊費を二重取りされそうになった。んっとにこのホテルはサイアクであった。ダラス国際空港は広大で三部分に分かれている。搭乗する便の名前と行き先をいったらタクシーの運ちゃん(黒人)はなんか知ったようなクチをきくので彼のいうとおりA17番ゲートにいったら、C37という、ここから車で三十分も離れたまったく違うゲートであることが判明。係員に「ここで待ってたらCターミナルにいくバスがくる」といわれた場所でまっていると、いろいろな空港バスがくるが、Cターミナルにはいかないとか、Cターミナルにいくバスはここにとまらない、とかいう。しかし、下働きの人たちは自分たちのやっている以外の仕事を把握する気はまったくないらしいので、空港職員の言をしんじつつ、待ち続けるとやっときた。

 Cターミナルとやらにつくと、これまたセキュリティチェックで靴までぬがされ、わたくしのラップトップはデイバックよりひきずりだされ、ビニール手袋をはめた白人のおじちゃんにいろいろな機器でなでまわされている不快。こんなへろへろの日本人がテロリストのわけないだろが。

 そしてやっと搭乗スペースにはいってはみたものの、例によって食欲のわかないメシ屋のラインナップ。おまけに搭乗ゲートがぎりぎりになって変更になる。私が寝てたり英語聞き取れなくて乗り遅れたらどうすんだよ。やっと搭乗したら隣は東洋系の女の子。この子乗り込む前にたまたま側をとおったら英語で独り言をぶつぶついって怒っていたので鉄板で日本人ではない。しかし、話しかけてみると、在米コリアンである。もうそれだけで、機嫌がよくなる。彼女は米国籍なのでペヨンジュンもチェジウも知らなかったが、私が「両親ともに韓国人なのに韓国で暮らしたいとは思わないのか」と聞くと、「私の学校も友達も仕事もみなここにある。だから私はアメリカをホームランドと思っている」というのを聞いて、冬ソナのヨン様がアメリカに帰るときにいったせりふと一緒だと思わず感慨にふけり、iPodで冬ソナのサントラを聞く(でもさすがに飽きてきた 笑)。

 ワシントンにつき空港タクシーに乗り込んだら、今度はオサマビンラディンそっくりの風貌をしたパキスタン人であった。コーランをお守りに下げているから、「アッラーフアクバル」といったら「オマエはイスラム教徒か」と喜ばれた。なわけないだろが。この前のエジプト人もそうだったが、彼らは日本の物価に興味があるらしく「一番安いお札はドルにしていくらか」とかそんなことばかりきいてくる。日本に出稼ぎにくるきかね。

 ワシントンの町中に入ると東京驛の丸の内口の景観にそっくりでなんとなく和む。ほとほと疲れ果ててホテルにたどりつく。つくなり死にかかったiPodとパソコンの充電にかかる。ポートはあるが相変わらず、9ドル払わないと接続はできない。これくらいただにしろ。それから食生活の改善を目標にチャイナタウンへと向かう(ダラスでは車のないワタクシはホテルの目の前のデニーズに行くしかなかった。胃が荒れた・・・・)。

↑ワシントン地下鉄にある広告「夫の暴力をがまんないで、女達よ声をあげて!」というポスター。ご立派な国である。

三月七日
 また朝五時から目が覚めてあまり寝付けないうちに八時半になるのでやけくそになってホテルをでる。もう睡眠薬もきかず肌荒れも絶好調である。

 話の種になるので地下鉄にのって博物館に行こうかとも思うが、相変わらず切符の買い方がわからない。同じく困っていた白人旅行者とともに試行錯誤のすえやっと切符をゲット。乗り換え駅ではホームにいるおっさんに右と左のどちらの列車にのったらスミソニアンかと聞いたら、丁寧に教えてくれた。これらはみな白人だったので少し白人の好感度がアップする(ダラスではいい人は圧倒的に黒人であった)。スミソニアンで降りて地上にでると、いきなり芝生のど真ん中。昨日、タクシーでワシントン入りした時こことおったな。すぐに、目的地のサッカリーギャラリーにいってもいいが、少しは観光するか。

 で、右をむいてキャピトルヒル(国会議事堂)の写真をとり、左を向いてキング牧師がI have a dreamを演説したリンカーン祈念堂をとり、すこし斜め前に歩いてホワイトハウスを写真におさめて、ワシントン観光、終了(笑)。

 やる気ナッシングである。

 アポイントは一時なので、その前にお昼でもと博物館のカフェテリアを探すが、警備員にカフェテリアの位置をきくと、キャッスルの売店で食べ物を買って中庭で食べろと言う。日に焼けるのがいやなのだがほかを探す気力もないので、スミソニアンの中庭でツナサラダとコーヒーを飲む。つくづくこの国の飯はカッコばかりで身につかんもんばかり。それからお仕事。サックラーギャラリー(左写真)のキュレーターとそのアシスタントには本当によくしてもらい、いろいろ史料のコピーとらせてもらって、アシスタントからは絶版の本までもらったので、彼らの気の変わらないうちにとごきぶりのように美術館を退散する。夜は飽きもせずまた昨日と同じ中華料理やにいく。

三月八日
 眠れないので目覚ましも何も必要ないまま時間通りに荷物をまとめてチェックアウトする。飛行場のカウンター係官のいうことがどんどん聞き取れるようになってきてるのがとてもイヤ。気がつくと彼らと同じゆとりのない疲れた顔をして歩いている。ホテルの外に出てみるとおどろくべきことに雨である。ワシントンのロナルドレーガンナショナルエアポートについたのはいいが、あのセキュリティのせいでわがパソコン(厳密にいえば早稲田大学のパソコン)が床に滑り落ちた。今回の旅でもっともびびった瞬間である。これが壊れたらプレゼンもクソもない。搭乗してからおそるおそる電源をいれたが一応パワーポイントは作動するようである。しかし、マウスは反応しなくなってしまった。

 外を見るとさっきまで雨だったのが雪にかわっている。昨日まではコートが必要ないくら温かかったのに。さて、ボストンには迎えがきておりそのまま大学の事務所に出頭。そして明日の講演の会場確認をし、彼のオフィスにおじゃまし、そのあとなぜかその教授の家にとまりにこいと拉致される。確かアメリカでは人のお宅におじゃまする時は花か食べ物をかってけとかいう掟があったような気がするので、途中花やによってもらう。すると、この花屋、外は大雪なのに半袖である。よくみると私をよんだ教授も半袖である。白人はにぶいのではないか

 彼の家は大学から車で一時間。途中アメリカ文学者を数々うんだというコンコルドだかなんだかの地名をとおりすぎ、彼の家についたら湖のほとりに五軒くらいの民家がぽつぽつあるだけで、それ以外は林だけ。しかも雪深いのでまるで山古志村。コンビニは? 喫茶店は? 子どもの学校は? スーパーは? 心臓発作おこしても医者は間に合うの? と聞きたくなるような環境であるが、アメリカではこれが普通らしい。

 このお宅では歓待していただき恐縮したが、なによりのもてなしはここの家の水であった。日本人は人の家に行くとあたりかまわずフロを要求するが(そんなの私だけ?)、入ってみると、蛇口がらでる水が温泉のにおいがして(井戸水を濾過しているという)、これで体や顔を洗うと肌がつるつるになる。すごいわ。今までの荒れ肌がこの日から改善しはじめた。

三月九日
 朝起きたら一面の銀世界。例によって眠れないので夜明けがみれた。おくさんの車が壊れたとかで夫妻は十時半に帰ると言い残してアカの他人の私を家に一人残して出かけてしまった。外はマイナス十度以上ありそうだが家の中はほかほかである。ブーツをかりて家の周りを歩く。きれいであるが、粉雪でぬかって、あまり距離は歩けない。

 それから、大学にもどり、宿舎のアーヴィングハウスにチェックインをし、オフィスにいきペーパーをもらい、それから会場に行って、たよりない女性の担当者といっしょに会場設営をするも、コンピューターの画面が、幕にぜんぜんうつらない。あせる。そしたらその担当者はいかにも私好みのオタクっぽいオトコをつれてきた。そのオタクは日本語仕様の私のパソコンを一瞥するやF2とfnをおして上から二番目を選択してあっというまにプロジェクターとラップトップを接続。そうだ、ダンナにこうしろと言われていたのに、時差ぼけでころっと忘れていた。めでたく画面もつながって、講演も盛況のうちに終わり(テーマはこの旅の目的、乾隆帝仏装像)、気になっていた質問タイムも日本語の分かる研究者の助けをえて(いいのかそれで)、ボストンでのお仕事、終了。

 そのあと、文学部時代の学生がたまたまボストンのとある大学に留学していたので、彼女といっしょに、大学内を散策する。この日の気温はマイナス12度まで下がって、寒いのでどこも行く気にならんが、とりあえずハーバート大学創始者の銅像の靴は磨いとく。これをやると頭がよくなるのだそうである。

 貧富の差の激しいアメリカでは、どこの街にもホームレスがいる。マイナス十二度のここボストンにも当然いる。彼女によるとATMとか教会で寒さをしのぐとのことであるが、結構道ばたでも寝ている。年間400万円の授業料をはらうハーバートの学生たちの足下には、マイナス十二度の寒空で寝るホームレスがいる。日本人にはストレスのたまる光景である。さらに驚いたことには、かのハーバート大学の教授といえども、大学の払う給料が安いので、あちこちに頭を下げてまわって研究費を集めているということ。どことはいわんが(笑)研究もしない先生が研究費をもらっている国もあるというのに。日本ではきつい仕事をする人にはそれなりの報酬が約束されているが、アメリカは単純労働の時給はものすごく安い。だから、ホテルや空港で清掃や給仕を行う人々の表情は疲れ切って暗い。誰も自分の仕事に誇りをもっているようには見えない。日本は猫も杓子もアメリカを崇拝し、そのいいなりになっているが、ちゃんと仕事していている人が暮らしていけなかったり、研究が滞ってたりする国のどこがいいのか。こんな国のまねをして、日本が本当に豊かな国になれるのだろうか

 アメリカのみやげものといっても、どれも日本で買えるものばかり。仕方ないのでハーバートの生協でハーバートグッズをかう(笑)。夜は研究者でみんなでお食事。ブッシュの悪口をいいながら楽しく会食。

三月十日
 例によって眠れないまま一日がはじまるが、この地獄もあとわずかで終わる。がんばれ自分。おみやげや資料や抜き刷りが増えたが、なんとかパッキン完了。七時に宿を出発する。ボストンからニューヨーク経由で成田に帰る。入る時は犯罪者扱いであるが、出国審査はやったんだかやらないんだかわからないようなやつであった。また、例によってセキュリティで不快な思いをする。

 ニューヨークについてから、国際便に乗り換えて成田に向かうのだが、これが乗り換え時間一時間十分しかなく大変。いつのまにかターミナルの外に出されているし(これは何を意味するかというと、またセキュリティで苦労するということ)、工事だらけの空港内をさんざんあるカされたあげく、別のターミナルでふたたびセキュリティへ。セキュリティとは子どもがなきわめき、人がにらみ合う、地獄絵図の世界。三十分前に搭乗口にいるのが連邦ルールだとかぬかしやがるので、私もあせってパスポートと搭乗券を口にくわえてセキュリティに飛び込む。箱一つとってラップトップをなげこみ、もう一つとって上着をいれて靴をぬいで投げ込み、デイバックを三つ目の箱になげこみ、カートをひきずりあげて、このすべてを一人でかついでセキュリティのベルトにながして、自らはボディチェックをうけて、そのあとふたたび荷物を回収する。この間、修羅場である。こうしてやっと10ゲートとやらに辿り着いたら、当然搭乗ははじまっていた。目の前に電話があったので、とびついて日本に国際電話をして無事最後の飛行機に乗れることをつげる。

もうこりごりである。

さようなら、ユナイテッドステイツ

願わくばこの国の土を二度と踏まないですむことを。

さようなら、アメリカ。

テロとでも何とでも勝手に戦ってくれ、私と関係ないところで。