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東陵のセイレーン


三泊四日北京にいて、学生指導兼学術調査をした。

今年はたまたま旧暦の正月とチベットのロサル(元旦)が重なった。
チベットでも中国でも新年最初の満月の晩はハデにいわう。かつてチベットでは僧侶の最高学位の試験が行われ、ラサ中に灯明がつけられ、ラサの町の中央にあるチョカン大聖堂においては、巨大なバター細工の供物が奉献された。  中国ではこの日は行灯を掲げて爆竹ならす。

というわけで、学生たちは街中に炸裂する爆竹の音をきいて「交戦中の国にきたみたいですね」と呆れ、自分は眠りを妨げられる北京の鳥たちが可哀想で仕方ない。

  1日、学生たちをつれて、雍和宮(北京にあるガンデンの末寺。北京の仏教センター)に行く。ここに祭られるチベットの仏たちや、乱舞する満洲語やチベット語やモンゴル語の碑文をみて、学生たちは清朝の皇帝がいかに他民族の文化を大事にしていたかを実感しているようである。世界一オタクな解説をしながら、次に学生たちをバスにのせて西苑(人民中国になってから北海公園と改称)に連れて行く。

西苑は自分は後門から入るのが好き。ここから入ると、かつて乾隆帝がチベット僧のチャンキャとチベット仏教についてまなんだ書斎がすぐだし、湖の真ん中に聳えるチベット式仏塔(1652年建立)をパノラマ視できるからである。そして船にのって白塔にわたるのがムードがあるのだが、湖が凍結していて船は休止していた。残念。  

雪がつもった西苑を見るのは初めてだったので、その美しさには息をのんだ。

パンダの帽子をかぶったMが竹藪にもぐって「みんな写真撮って撮ってー」とはしゃいでいても、Yくんが凍った池を地面だと思ってふみぬいて靴をぬらしていても、女の子たちが満洲ドレスをきてコスプレ写真をとっていようとも、寒がりのOくんが寒さにまけて土気色になっていこうとも、まったく気にならない(おい)。  

何しろ激しく寒いので観光客も人民もまったくフレームインしないので、気分が王朝時代に戻るのである。  学生たちが「天安門前広場みにいきたいー」というので、故宮の西側を歩いて午門前にでる。そしたらなんか観光客がゼロで兵士がめだって、天安門前に抜ける道も封鎖されている。仕方ないので「もう閉まりだよ〜」とわめくオッサンにおいたてられながら太廟を経由して南にでる。  そういえばこの時期、人民大会堂で政治協商会議が開かれるんだっけ。  

で、夜は西太后ゆかりの狗不理で食事して学生たちは前門で土産物屋に消えていく。大学生は勝手に遊んでくれるので楽でいい。  

翌日、自分は東陵に調査にいく。昨日「ついていきます」といっていた学生二人が「やっぱ万里の長城に行きます」とかいって日和るので、結局、大学院に行く M一人を連れて出発する。残る学生たちはテキトーにグループになって、ネタにするためにドラえもんやミニーちゃんのコピー商品を探したり、万里の長城とその麓のクマ苑にいったりしていたようである(なんだそりゃ)。

高速にのってひたすら東進して、高速を降りた後はナゾの無人マンション街や人民がまいたゴミのため蛇行しなければ進めない道をいき、謎の2本コンクリの間の狭い空間を通り抜けたりしながら(大型車通行禁止という意味か?)、やっと東陵につく。  しかし、東陵は見えているのに、地元のオバさんたちがそこに続く道を占拠していて、「この道は封鎖されているよ〜。道を教えるよ〜」といってバイクでひたすら追跡してくる。これは、旅人を惑わして殺すという魔女セイレーンの人民版である。  

私は車の窓から顔をだし「われわれはニッポンジンでーす。中国語わっかりませーん」とどなってオバハンたちのおしかけガイドを断る。  

パーキングからまず西太后の墓をみて、次に乾隆帝の妻の墓にいき、その後、メインの乾隆帝の墓にいく。

乾隆帝の墓の地下部分は完全にチベット仏教風になっている。壁面にはチベット仏教のデザインによる供養の品やランチャ文字でマントラがびっしりと彫り込まれている。  この墓の写真や報告はないわけではないが、宗教を限りなく軽視する人民の手になるものであるため、その解釈は限りなく甘く浅い。私もチベット仏教に通暁しているとは言えないが、人民よりは知っているので、私がみれば人民には気がつかないことが見えるかも知れないというわけで、こうして調査しているわけである。

とりあえずざっと見た限りでは墓室は四つの門で区切られている。まずざっと歩いて四番目の部屋までいき、次に入り口に戻ってメモをとりながら歩きなおす。すると、Mが「門の上になにも文字の書いていない額がありますねー」というので、門の上を見ると宮殿風の屋根がついている。それをみているうちに、この墓室は、身・口・意・純粋意識の四輪のマンダラを表したものでないかと気づく。  Mに言うと彼もそう思うというので、一つ一つの部屋の幅を歩いてはかってみる。一つ一つの部屋の幅は進むにつれて小さくなっていてく。確かにマンダラっぽい。  

いける!!!(と思う)  

というわけで、次は古墳の上にあがって文殊とヤマンタカのマントラを唱えながら乾隆帝の棺を大きくコルラ(巡拝)する。

  そのあとは三大皇帝順治帝の母でありかつ二代皇帝ホンタイジの妻であるモンゴル女性の荒れ果てた墓にいく。これも世界遺産なのに、墓のまわりは畠になっていて、墓をかこむ壁も畠を耕す人の便のために大穴が開けられている。  人民中国になって計り知れない文化財が人民によって破壊された。しかし、2008年のオリンビックに向けて多くの史跡は整備され、その破壊のあとは隠蔽されている。しかし、このお墓のように観光ルートからはずれたものは昔のままで荒れ果てたまま。

  なんかすごく仕事したような気持ちになって帰路につく。論文にするのはまだ多くの作業があってこれからが大変なんだけど、なんかもう仕上がったような気になる。

  帰りの高速は対向車線も自分たちの車線もほぼ車ゼロ。北京のムネオロードである。そして料金所のたびに警察がいるので、なんか自分たち交通規制をうけながら移動するVIPになった気分である。運転手さんによると、明日から政治協商会議が始まるので、北京への通行証のない車は北京に入れないんだって。  

やれやれ。


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